546話 台湾・餃の国紀行 7

 安全旅社 番外編

 これは、番外編である。安全旅社にまつわる話は、全5話ですでに終わっていたのだが、もう1話加えなければいけなくなった。
 帰国してすぐに、この「餃の国紀行」の文章を5万字ほど一気に書いた(だから、この「餃の国紀行」は、あと20回分くらい続く)。そのあと、さまざまな資料を読んで事実関係の点検などをしていた。手書き時代は文章の構成をよく考え、資料をある程度読んでからペンを持ったのだが、ワープロを使うようになってからは、思いついたまますぐに文章にするようになった。加筆、削除、訂正が簡単だからだが、そういった文章はいいかげんだから、アップする前に何度も校閲する必要がある。見落とした事実や誤記があるからだ。情報が足りなかったり正確さに不安があれば、資料をネット古書店に注文したり、図書館に行く。そしてまた資料を読み、文章に手を加える。外国の古本屋に注文すれば、到着までひと月かかることもある。だから、この雑語林は文章を書いてから発表するまでに、普通はひと月ほどの時間差がある。ツイッター(時代の流れ)の逆をいっているのである。私は文章がヘタで、そそっかしいので、書いてすぐ公表するのが怖いのだ。
 今回も校閲のために、さまざまな資料を読んで、すでに書いた文章の点検をしていた。資料の1冊、アジア旅行記と旅行情報を合わせた『旅の技術 アジア篇』(旅の技術編集室、風涛社、1976)を棚から取り出して、台湾情報の項を読んでいて、飛び上がりそうになった。1976年の旅行ガイドで紹介されているたった1軒の旅社が、次の1行だ。
 安全旅社 重慶北路一段二十六巷二十二号(台北駅近く) TEL 541-5585
 78年の旅の前にこの本を読んでいるが、こういう安宿情報がすべて頭に入るわけではない。台湾に行く時は、こういう情報は覚えていなかったはずだ。そして、私はガイドブックが紹介する宿にはあまり行かない。自分で歩いて探すのだ。だから、35年前の台湾でも、歩いて宿を探した。
 『旅の技術』には、私も知らなかった安全旅社の住所がちゃんと出ている。安全旅社は、台北駅からもっとも近い宿ではない。駅近くに、安宿などいくらでもあるのだ。そのなかで、この本の台湾の項を書いた人が、台湾の安宿として、協会のハンドブックですぐにわかるユースホステルやYMCAのほか、安宿として唯一安全旅社の名をなぜ載せたのだろうか。ここよりも駅に近い安宿はほかにいくらでもあり、特に安いわけでもなく、日本人にとって特別に便利な宿というわけでもない。数多くある駅裏の安宿から、ガイドブックが安全旅社を選んだ理由がわからない。『いくたびか、アジアの街を通りすぎ』を書いたときは、記憶をもとに地図を広げ、安全旅社があったのは「延平北路」だと推定し、そう書いた。
 念のために、『アジアを歩く』(深井聰男、山と渓谷社、1974)をチェックしたら、わずか1ページ半の「台湾」の項に・・・、おお、なんてこった。台北の安宿として、こうある。2軒の安宿が紹介されている。
 「安全旅社 場所は新台北旅社近く。近くに安宿あり」。新台北旅社の説明は「空港から23番のバスで駅に行き、線路を渡ったところ」。私は、台湾旅行に『アジアを歩く』は頼りにしていなかった。1ページ半しか情報がないのだから。
 そうか、『旅の技術』の情報源は、もしかすると、『アジアを歩く』かもしれない。それならば、その元の情報源は何だろう。個人旅行者用の初期のガイド2冊(多分、日本最初と2冊目だろう)に載っていた台北の安宿、安全旅社に、私はまったく偶然に泊まっていたということになる。そして、当然だが、80年代以降のガイドから、この宿は姿を消す。
 安全旅社がどこにあったのか忘れてしまい、もちろん詳しい住所など知らず、あの場所は永遠にわからなくなったと、思っていたのだ。そういう知識で、安全旅社の5話を書いたのだ。ところが、たった今、住所がわかったことで、事態が急展開した(まず、まだアップしていなかった全5話のなかの「延平北路」と書いた部分は、「重慶北路」に書き変えてアップした)。台湾で買った台北の詳しい地図を見て、安全旅社のだいたいの位置がわかった。その地図には詳しい番地までは記入がないので、ピンポイントの位置はわからない。グーグルの地図で推定地周辺の確認をすると、ストリートビューのオレンジ色のあの人形が、かつて安全旅社があったあたりの通りに立つことができるとわかった。つまり、35年前に見た路地の現在(実際は、2010年あたりだろうか)を、日本にいる私が見ることができるのだ。これが、35年後の文明の進歩なのだ。
 路地の中央に立ち、360度の世界を眺めると、安全旅社のあとに建ったのは、どうやら中層アパートらしい。35年という年月は、新築アパートをこれほどみすぼらしくするものかという疑問もあり、別のアパートは新しすぎるし、正直言ってよくわからないのだ。あの頃は、2階か3階建のレンガ積み・モルタル仕上げの古い建物しかなかったような気がするのだ。
 実は、今回、昔の旅日記を見ずに文章を書こうと思った。失った記憶は失ったままで書こうと思ったのであり、もし昔の旅日記を見れば、この台湾旅行記がますます長くなることが確実だからだ。しかし、安全旅社の一件で、当時の情報を確認するために、一度は封じた旅日記を開いた。それでわかったことをひとつだけ書いておく。今回「小姐」と書いてきた人の姓と、彼女の「父の会社」の名前もわかった。インターネットで調べると、今も堂々とした大企業だ。
 日記を読んでわかったことを、もうひとつ書きたくなった。この時の旅は、横浜から船で香港に行き、台湾へ往復旅行をしてからタイに飛んで、西への旅を続けた。私の中国語の先生と、働いていた中国料理店の台湾人料理長に頼まれた薬がバッグに入っていた。香港では、中国語の先生の友人のためにジョニ黒を買って、その人の職場に届けた。その職場というのが、今は台北当代芸術館になっている建物、つまり当時の台北市役所だ。旧市役所がまだ現役の時代に、あの建物に足を踏み入れたことがあったのだ。日記を読むまで、そんなことはすっかり忘れていた。
 重慶北路周辺にも、あの時代を思い出す目標物など何もないので、周辺でストリートビュー遊びをやっても、記憶に残る建物など何もない。しかし、あの頃歩いたに違いないと思われる路地に入りこむと、古い家をいくらでも見ることができ、「たぶん、この路地に潜りこみ、こういう店で飯を食ったんだなあ」という感慨に包まれる。古い地区だが、観光客が来るような古い西洋館があるわけでなく、いずれ消えるだろう。
 思い出がはっきりあれば、人は、ストリートビューで泣ける。はっきりとした思い出がなくても、雰囲気だけでも、心がちょっとしめつけられるものだ。思い出は、旅の宝だ。
(「安全旅社」の章、終り)