579話 排泄文化論序章朝鮮編  その8

 おまる

 朝鮮の旅行記を読んでいると、住宅の窓からおまるの内容物をあける人がいるから、家のすぐそばを歩かないようにという話題を何度かでてくる。フランスの便所史を読めば、かならず出てくる話だ。このことからも、朝鮮は「おまる」(屎瓶も含めて室内便器を、総称として、ここではおまると表記する)の文化圏だとわかる。西洋も同じだ。昔話ではない。アイルランドアメリカ人作家フランク・マコートの自伝的小説を映画化した「アンジェラの灰」(アメリカ・アイルランド、1999年)は、主に1930年代のアイルランドが舞台なのだが、主人公の少年は居候先の男が使う小便用ボールの掃除をすることでなんとか生き延びるというシーンがあった。その男は病人ではなく、老人でもない。室内便器が金属のボールなのだ。
 アイルランドから朝鮮に至るまで、おまる、つまり室内便器は日常的に使われてきた。日本では、将軍など特別の人は室内便器を使っただろうが(なにしろ、寝室から便所までが遠い)、一般人ではおまるは病人か老人用というイメージがあり、私の想像では、誰でも使っていたわけではないと思う。
 朝鮮でおまるを使ってきた理由は、気候にあると思う。臭気などを考えて、便所が母屋から離れていたこと。これは日本の農家でも同じで、アメリカの西部劇を見ていたら、やはり同じように母屋から離れて便所があった。朝鮮の場合は、凍りつく冬があり、寒いなか、家を出て何度も便所に行くのはつらいという事情があり、中国の影響を受けておまるを使う習慣が定着したと思われる。
 『庶民たちの朝鮮の王朝』を読んだ時、路上に糞尿があふれているのは、おまるを使う習慣があるからだろうと思った。おまるの中身を、共同便所に捨てに行くという労を惜しんだのだろう。
 おまるのことを考えていて、頭に浮かんだのは、韓国の映画やドラマだ。私は、韓国の映画は数十本見ているが、連続ドラマはあまり見ていない。そういう乏しい体験だが、「韓国の映画やドラマには、便所のシーンが多い」と仮説を立ててネット検索したら、「やはり、そうか」と我が仮説を証明するかのような書きこみが多い。その名も「トイレ、どこですか?」(2002)という映画があるそうだが、見る気がしないので見ていない。ドラマ「私の名前はキム・サムスン」は、見た。レストランのパティシエであるキム・サムスン(キム・ソナ)が店のトイレに入っているシーンが多く、しかも各シーンが長い。日本人の常識からすれば、人気女優がよくもそういうシーンを何度も撮らせたものだと驚く。
 韓国のドラマを数多く見ている人は、「あれも、これも、トイレのシーンが多かった」と思い浮かぶ作品があるだろうが、私が見た数少ないドラマにも、「これぞ、まさに便所ドラマ!」というのがある。なにしろ、ドラマの裏テーマが便所とおまるなのだ。そういう内容だと知っていて見たのではない。偶然に、見たのだ。
韓国KBSドラマ「ぶどう畑のあの男」(2006)は、こういう話だ。
 イ・ジヒョンは、ソウルで暮らすファッションデザイナーの卵である若い女性。彼女は、親戚のイ・ビョンダル老人(韓国演劇界の重鎮、イ・スンジェ)がやっているぶどう畑で1年間働けば、そのぶどう畑を譲ってくれるという話を聞いた。カネに困っている彼女の一家は、そのぶどう畑を相続してひと儲けしようという思惑で、娘をそそのかす。彼女は一家の期待を背負って、ぶどう畑で働くことになった。都会育ちの女の子が、田舎でどう暮らすのかというのが大筋で、それにラブストーリーがからむ。
 イ・ジヒョンがぶどう畑に引っ越してきて、最大のカルチャーショックは汲み取り式便所だった。この臭気に耐え切れず、彼女は畑で用を足すようになる(このイ・ジヒョン役をやるのが元アイドルのユン・ウネというのも、すごい)。しかし、夜はそういうわけにもいかず、イ・ビョンダル老人がおまるを使っていることを知り、彼女もおまるを買うことにした。フタつきの大きなどんぶりのような器だ。韓国のおまるを、テレビで初めて見た。現在は、人糞肥料の使用は禁止されているようなので、便所の排泄物はぶどう畑には使われてはいないだろう。
 快適なトイレで用を足したいと願う彼女は、水洗便所がある近所の家に行き、便所を借りる日々を過ごす。いままでの都会での生活態度を改めて、畑で働くようになった彼女の姿を見たイ・ビョウンダル老人は、自宅の汲み取り式便所を水洗式に改造するという贈り物をする。こういう裏ストーリーに、表のラブストーリーが絡むユニークな作品だ。韓国のドラマにしては珍しく、財閥の御曹司も、交通事故も記憶喪失もない佳作である。