586話 ふたたび、コメの話

 四方田犬彦の『ひと皿の記憶』(ちくま文庫)に、マニラの市場の話がでてくる。
 「市場の屋台でビトロンを売っていたので、いい機会だと思って食べてみた」
 フィリピンの市場で、ビトロン? 孵化直前の卵を茹でたものを、ベトナムでは発音記号を省略して表記すれば、hot vit lonで、日本では「ビトロン」とカタカナ表記されることが多い。同じ食べ物は他の地域にもあり、フィリピンではbalutといい、「バロット」か「バロッ」と表記されることが多い。どうやら、著者はフィリピンとベトナムを混同してしまったらしい。誰の本にも混乱や間違いはあるのだから、その1点で、この本を否定する気はない。だから、「ひどい」と糾弾するつもりなどさらさらないが、かと言って「すばらしい」と高い評価を与えるというわけでもない。世界各地で口にした食べ物の記憶を描いているのだが、文章が薄い。味わいに乏しいという弱みがある。資料によりかかりすぎていて、ある食べ物が作られ食べられている現場の観察や描写に深さや鋭さがない。食べ物の話だけで、その食べ物がある情景の描写に乏しい。開高健ならばもっとうまく書く・・・などという無理な要求はしないが、それにしても、もし小説家ならば・・・と高望みしてしまうのだが、小説家なら印象記になってしまい、比喩はうまいが、細部の観察と解説がおろそかになりがちで、どちらにも一長一短がある。
 ビトロンのほかにもうひとつ気になったのは、コメの話だ。イサーン(タイの東北部)のコメについて、こう書いている。
 「ちなみにイサーンでは伝統的にいって、東南アジアで普及しているパラパラのインディカ米を用いない。カオニャオといって、日本でいうところの糯米(もち米)に近いものを蒸し、藁細工の小さな筒にいれて供する」
 飯を入れる筒はクラティップといい、ワラではなく竹で作るはずだが、それはともかく、コメの話だ。「日本でいうところの糯米に近いもの」という表現がどうにもわかりにくい。奥歯に食べカスが詰まったような表現だ。東南アジアで普及しているのが「パラパラのインディカ米」だというのなら、イサーンの米がどういうものかはっきりと書けばわかりやすいのに。
 ウィキペディアで「タイ料理」を調べると、米に関して次のような記述がある。
「主食は米。インディカ種の一種であるタイ米が広く食べられている。北部や北東部では、長粒種のもち米も常食される」
 こういう記述では、タイではインディカ種のタイ米が広く食べられているが、北部や北東部では長粒種のモチ米が常食されていると理解できるが、「インディカ種」と「長粒種」との関係をなにも書いてないし、「タイ米」なるものが糯米(モチ米)か粳米(ウルチ米)なのかという説明もない。つまり、ウィキペディアの「タイ料理」の項目を書いた人は、コメの基礎知識がないのだとわかる。
 雑語林571話「ラオスとコメの話」を書き終わったあと読んだ本にも気になる個所があったので、コメント欄に次の一文を追加した。
 「『カレーの歴史』(コーリン・テイラー・セン、竹田円訳、原書房、2013)でも、タイの米は南部や中部ではさらさらな長粒種、北部や東北部で粘り気のある短粒種だ、という原文をそのまま翻訳している)」
 以前にも、この雑語林で書いたのだが、ふたたび正解を書いておく。大粒のジャバニカ種(Javanica)を除外して考えると、世界のコメは大きく分けてインディカ種とジャポニカ種の2種類あり、それぞれにウルチとモチがある。タイで広く食べられているのは、インディカ種のウルチ米で、北部や東北部で食べられているのはインディカ種のモチ米である。こういう基礎がわかっていないと、あいまいな表現でコメを語り、よくわからない文章になる。「インディカ米は、パラパラ、サラサラ」と覚えてしまうと、タイ北部や東北部のモチ米の説明に苦労して、インディカ種ではないと理解したくなるようだ。
 ついでに、米の料理法の話もしておくと、伝統的には熱帯アジアではウルチ米は茹でてから湯を捨てて蒸し焼きにする。モチ米は蒸して食べる。モチ米には粘りがあるので、湯が対流しにくく、熱がうまく伝わらないからだ。しかし、今では炊飯器でどちらの米でも料理できるようになった。我が家でも、赤飯は炊飯器を使うようになった。アジアのモチ米地域では、モチ米はまだ昔通り蒸しているものの、ウルチ米地域では炊飯器を使うのが普通になっている。ところが、『キッチンの歴史』(ビー・ウィルソン著、真田真由子訳、河出書房新社、2014)では、インディカ種のウルチ米を食べている熱帯アジアでは、炊飯器はその地域の伝統的な炊飯方法に反するので受け入れられないのだと述べている。著者も訳者も編集者も、アジアの炊飯器事情を知らなかったようだ。
 実は、すでに一度書いた米の話を今回もう一度書いておこうと思ったのは、こんなことがあったからだ。先日開催された食文化研究会で参加者と雑談していたときに、私はコメを話題にした。この雑語林571話   http://d.hatena.ne.jp/maekawa_kenichi/20140119/1390092430
で書いたことをテーマに、「インディカとジャポニカそれぞれに、ウルチとモチがあるのに・・・」と米の話を始めると、「へー、知らなかった。インディカ種にモチ米があるんですか!!」と驚いた教授がいたのに、私はもっと驚いた。彼は、食文化の本を何冊か書いているのだ。だから、この場で「『世界の米は3種類に分けられ、インディカ種とジャポニカ種とモチ米である』などと書いていた大学教員がいたんですよ。のちに事実を知ったら、さぞかし恥ずかしい思いをしたでしょうね」というオチの話はできなかった。
 コメについてもう少し知りたいという人は、佐藤洋一郎さんの本、例えば『イネの文明』(PHP新書)や、『イネとはどんな植物か』(三一新書)などを手始めに読んでみるといい。