590話 ラジオ時代 3/4

 奈良の山奥で


 私は東京で生まれたが、1年ほどいただけで奈良の山奥に移った。物心がついた場所は、東西が山に挟まれた谷の村で、そこに1961年3月までいた。奈良の9年間のうち、前半は乳幼児だから、記憶があるのは幼稚園から小学校低学年までの間しかない。それでも、ラジオから流れていた歌の記憶がある。現在と違い、昔は歌の寿命が長かったので、数年前の歌でもラジオで頻繁に流れていた。だから、例えば1956年によく聞いた歌が、その年の流行歌だったとは限らない。
 生まれる前のヒット曲で、少年時代に聞いた記憶がある歌を書き出してみよう。
1946年/リンゴの唄(並木路子)、東京の花売り娘(岡晴夫)、夏の思い出(NHKラジオ歌謡) 
1947年/星の流れに(菊池章子)、啼くな子鳩よ(岡晴夫)、港が見える丘(平野愛子)
1948年/東京ブギウギ(笠置シズ子)、憧れのハワイ航路(岡晴夫)、湯の町エレジー近江俊郎)、フランチェスカの鐘(二葉あき子)、ブンガワンソロ(松田トシ)、異国の丘(中村耕造、竹山逸郎)、東京の屋根の下(灰田勝彦
1949年/青い山脈藤山一郎奈良光枝)、悲しき口笛美空ひばり)、銀座カンカン娘(高峰秀子)、長崎の鐘藤山一郎)、三味線ブギウギ(市丸)、薔薇を召しませ(小畑実
1950年/東京キッド(美空ひばり)、買物ブギ(笠置シズ子)、ボタンとリボン(池真理子)、水色のワルツ(二葉あき子)、夜来香(山口淑子)、イヨマンテの夜(伊藤久男
1951年/私は街の子(美空ひばり
1952年/この年に私は生まれたが、もちろんその年のヒット曲をその年に聞いて覚えているわけはないが、少年時代に聞いた記憶ははっきりとある。/リンゴ追分(美空ひばり)、テネシーワルツ(江利チエミ)、お祭りマンボ(美空ひばり)1953年/街のサンドイッチマン鶴田浩二)、雪の降るまちを(高英男)、黒百合の歌(織井茂子
1954年/「お富さん」はこの年の発売だが、もちろんその年の記憶はない。しかし、それから数年後、近所の人たちとの花見など、宴会でこの歌を歌う人が必ずいたことは。はっきりと覚えている。「いきなくろべいみこしのまつにあだなすがたのあらいがみ」という呪文のような歌詞の意味がわかったのは、大人になってからだ。/お富さん(春日八郎)、ひばりのマドロスさん(美空ひばり)、青いカナリヤ(雪村いずみ)、岸壁の母菊池章子
1955年/島倉千代子は、けっこう好きだった。美空ひばりは堂々としていて、おもしろくなかった。島倉千代子のはかなさにひかれた小学生だった。/この世の花(島倉千代子)、娘船頭さん(美空ひばり)、りんどう峠(島倉千代子)、田舎のバス(中村メイコ)、カスバの女(エト邦江)
1956年/リンゴ村から(三橋美智也)、若いお巡りさん(曽根史郎)、愛ちゃんはお嫁に(鈴木三重子)、ケ・セラ・セラ(ペギー葉山)、ハート・ブレイク・ホテル(小坂一也)、ここに幸あり大津美子)、どうせ拾った恋だもの(コロンビア・ローズ)
1957年/このころから、ヒット曲を同時代に聞いた記憶がある。ラジオから流れてきた歌だ。/喜びも悲しみも幾歳月(若山彰)、チャンチキおけさ(三波春夫)、東京だよおっ母さん島倉千代子)、船方さんよ(三波春夫)、港町十三番地美空ひばり)、バナナボート(浜村美智子)、東京のバスガール(コロンビア・ローズ)、メケ・メケ(丸山明宏)
1958年/学校からの帰り道、文房具店を出たら、どこかの家から「夕焼けとんび」がかなりのボリュームで流れていたのをはっきりと覚えている。この年、東京では第1回日劇エスタンカーニバルが開催され、以後も姿を変えて81年まで続いた。ごく初期のウエスタンカーニバルの映像を、奈良の少年はテレビのニュースで見ている。ウエスタンと言っても、ロカビリーである。テレビの演芸番組でも漫才がロカビリーを取り上げていた。「廊下で踊っていて、障子紙をビリーと破って、ロカビリーという名前がついた」などという極めてつまらない笑いで、幼稚園児でもつまらなさがわかるほどだった。大人になった今、子供をバカにしてはいけないとつくづく思う。/有楽町で逢いましょうフランク永井)、嵐を呼ぶ男石原裕次郎)、おーい中村君(若原一郎)、ダイアナ(平尾昌章)、監獄ロック(小坂一也)、無法松の一生(村田英雄)、泣かないで(和田弘とマヒナスターズ)、思い出さん今日は(島倉千代子)、からたち日記(島倉千代子)、だから言ったじゃないの(松山恵子)、夕焼けとんび(三橋美智也
1959年/「僕は泣いちっち」や翌60年の「ミヨチャン」(平尾昌章)が、自転車屋から流れていたのを覚えている。私は7歳のガキなのだが、ずっと年上の歌手の幼稚さや甘ったれた歌い方にうんざりしていた。このころからすでに、女の子がキャーキャーいう歌手やバンドに嫌悪を感じていた。「甘えた声を出せば、ガキはキャーキャー喜ぶんだよ」という営業作戦がミエミエだったからだ。そんなことが、7歳の子供にもわかった。/黒い花びら(水原弘)、黄色いさくらんぼ(スリーキャッツ)、可愛い花(ザ・ピーナッツ)、南国土佐を後にして(ペギー葉山)、人生劇場(村田英雄)、山の吊り橋(春日八郎)、古城(三橋美智也)、僕は泣いちっち(守屋浩)
1960年/「アカシヤの雨が止む時」(西田佐知子)は、今も好きだ。情感のある声と歌い方がいい。だから、ずっと関口宏が嫌いだった。床屋で順番を待っているときに、デビューしたての橋幸夫がテレビで歌っているのを見た。それまで、歌はラジオから流れていたが、しだいにテレビで映像とともに家に入って来るようになった。歌手の顔と歌と名前が一致するようになってきた。/アカシヤの雨が止む時、月の法善寺横町(藤島恒夫)、潮来笠(橋幸夫)、有難や節(守屋浩)、誰よりも君を愛す松尾和子、マヒナスターズ)、さすらい(小林旭)、メロンの気持ち(森山加代子)、月影のナポリ(森山加代子)
 上に書きだしたヒット曲のリストは、『1946-1999 売れたものアルバム』(Media View編著、東京書籍、2000)を見ながら書き出したのだが、1970年代までは同じようなリストを作ることができる。歌が町に路上に流れていたから、聞く気がなくても、歌が耳に流れ込んできたのだが、1980年代に入ると、知らない歌ばかりになる。耳に入ってきても、そのまま抜けてしまう歌ばかりになったからであり、FM番組を聞くことが多くなったからかもしれない。