594話 山田學が語る海外旅行産業史 2/4

 東京オリンピック開催中は外国で


 1964年4月、海外旅行が自由化された。それまでは、日本政府の許可がなければ海外渡航ができなかったのだが、自由化されたことで、誰でも海外観光旅行ができるようになった。「ひとり、年に1回、持ち出せる外貨は500ドル」という制限がついていたが、金額的には海外旅行はまだまだ高嶺の花で、「年1回」という制限がなければ何度でも行くという人はほとんどいない。持ち出せる外貨が「わずか500ドルか」と思うかもしれないが、1ドル=360円時代なので、500ドルは18万円だ。大卒初任給が1万数千円という時代なので、500ドルは、若いサラリーマンの半年分の給料に相当する額だ。現在の感覚なら、百数十万円という額だろう。だから、「たった500ドルか」と不満に思う人は多くはなかったと思う。
 若い人には、この規定が理解できないようだ。30代の人に持ち出し外貨制限の話をしたら、「わざわざ外貨なんか持っていかずに、日本円を持っていけばいいじゃないですか」と言われたことがある。日本円は、どこの国でも昔から自由に両替できたと思っているようだが、1964年当時に日本円を自由に両替できたのは、香港ほか何か所もない。しかも、1ドルは公定で360円だが、香港では400円ほどした。
 この年の10月に東京で開催されるオリンピックはビジネスチャンスでもあると、東京・虎ノ門航空営業所の所長になっていた山田學は思った。外国からオリンピック選手や関係者を載せた航空機が東京に着き、乗客を降ろしたら、空席のまま帰国する。日本からの乗客がほとんどいない時代だから、航空機はバスでいう「回送」で帰るしかない。そして、選手団が帰国するときに日本まで空席で迎えに来る。だから、その便を利用して、選手団を乗せてきた飛行機に日本の団体を乗せてヨーロッパに運び、選手を迎えに日本に来る便でその日本人団体客を帰国させるというアイデアを思いついた。航空会社も往復で商売ができるから儲け話で、日本人の団体客は格安で旅行ができることになる。そういうシステムを日本の旅行業者が考えたのである。
 この団体旅行のことは、旅行業界史の資料で読んだことがあり、昔から知っていたが、この仕組みを考えたのが山田だったと、この本を読んで知った。
 「(1964年)当時のヨーロッパ旅行はだいたい1人当たり往復80万円ぐらいが相場だったところを、通常のちょうど半分の往復39万8000円で売り出すことができたんです」
このシステムを利用した最初のツアーは、全国専修学校各種学校連合会を中心にして参加者を集めたという。この時代の40万円は、もちろん安くない。小学校教師の初任給が1万6000円くらいだから、若い勤め人の月給は2万から3万円くらいだろう。ということは、いくら今までの半額になったとはいえ、若いサラリーマンの年収以上の金額ということになる。
 特別の才能を持った若者たちが、大金を工面してヨーロッパに行ったという話を、『旅のスケッチブック』(新書館)という本で知った。旅に出たのは、その本の著者である和田誠、当時28歳だった。自宅にあるはずのその本を探す気はないので、同行者が書いた本を注文した。『波乱へ!!』(横尾忠則、文春文庫、1998)が届いたので、その部分を引用する。
 「一九六四年といえば東京オリンピックの年である。オリンピック競技に出場する選手がヨーロッパからチャーター機で来日するが、その帰路飛行機は空っぽで帰るのがもったいない。その飛行機を利用してヨーロッパに行けば多少安い料金になるというので、日本広告技術協議会という団体がツアーを企画した。そのことを知ったぼくは和田誠を誘って突然ヨーロッパに行くことにした。和田君の勤めるライトパブリッシングの同僚の篠山紀信も参加することになった。宇野(亜喜良)さんも誘ったが旅費が調達できないという理由で行けなかった。ぼくは幸いグンゼのテレビCMのギャラと郷里の家を売ったお金があったために、それをそっくり旅費に当てることにした」
 家を売ったカネで洋行というのは、まだ戦前と同じ状況だったとわかる。3週間の「通常の半額のヨーロッパツアー」が、家を売った代金だけでは足りなかったのだが、この年まだ23歳、新入社員の篠山紀信は、そのくらいのカネをすでに稼いでいたようだ(借金したのかもしれないが、若者が簡単に借りられる金額ではない)。
 このツアー代金がいくらだったかわからないが、仮に40万円だとして、それに小遣いとして500ドル(18万円)を用意したとして、総支出額は最低でも60万円くらいだろう。その費用を、当時の不動産価格と比べてみると次のようになる。
 1964年の土地価格を、当時の新聞広告から探ってみると、武蔵境駅徒歩12分、ひと坪3万3000円。弘明寺駅横浜市)徒歩5分、ひと坪2万6000円。向ケ丘遊園駅(川崎市)徒歩8分、ひと坪1万9000円。北海道長万部町、5000坪60万円。相模湖畔別荘地3500坪52万円。60万円というのは、そのくらいの価値の金額だった。
 この横尾の自伝では、ヨーロッパ旅行のことは、わずか1ページ分しかない。横尾と和田は同じ28歳だったが、横尾はビートルズに興味があり、和田は嫌っていたというのが、のちの軌跡をみてもよくわかる。
 若き蔵前仁一は、インド旅日記を旅行中に盗まれてしまったことがきっかけで、旅行作家の道を歩みだすのだが、若き横尾忠則はぎっしり描き込んだスケッチブックをロンドンのタクシーに忘れて、なくしてしまった。才能ある若き芸術家には、こういう試練が必要だったのかもしれない。