598話 京都のガイドブック

 観光史や旅行ガイドブックの歴史などを調べていて、偶然出会った論文、「明治初期京都の博覧会と観光」(工藤泰子、京都光華女子大学紀要2008年12月)を読んでいて、このアジア雑語林用の原稿案が浮かんだ。
 幕末の京都は戦で荒廃し、明治になると都の地位も東京に奪われ、没落や衰退ということばが似合う場所になってしまった。そこで考えだされた復興計画の骨子は、改めて「観光都市・京都」であり、その人集めに博覧会を開催するというものだった。
 「博覧会」という日本語は、すでにあった。1865(慶応元)年に、フランス政府から1867年に開催予定の第2回パリ万国博覧会への出品要請を受けた時に、フランス語の”Exposition”を翻訳したものだ。話がちょっと横道にそれるが、この第2回パリ万博は、幕府とは別に、薩摩藩佐賀藩が出品したことや、ジャポニズムへの影響など話題が多い。のちに与えた影響では、例えばこういうことがある。
 イギリスで法律を学んでいた薩摩藩町田久成は、藩の使節としてロンドンからパリ万博に派遣された。帰国後は法律の専門家になるが、1882年に東京帝室博物館(のちの東京国立博物館)の初代館長となる。2代目館長田中芳男は、幕府の随員としてパリ万博に派遣された人物だ。佐賀藩から派遣された佐野常民は、大坂の適塾で学び、長崎に移り長崎海軍伝習所を開設した人で、パリ万博から帰国後は、海軍の基礎を作ったが、西南戦争をきっかけに日本赤十字社の元となる組織を作った。パリやロンドンやそのほかの都市の万博関連の本が何冊も出版されていることからもわかるように、日本人と万博という話題だけでもいくらでもあるが、ここでは京都の話に集中する。
 今風の言葉でいえば、町おこしの行事として、「京都博覧会」と称するものを1871(明治4)年にやると決まった。主催は、京都の経済人の集まりだ。会場は、西本願寺書院。会期は33日間。開催してみれば、入場者は1万1211人。古今東西の珍品や美術品などを展示・即売をしたようで、充分な収益が上がった。そこで、改めて半官半民の京都博覧会社という組織を設立して、翌年から毎年開催することにした。ちょっとややこしい話なのだが、京都博覧会社主催で行われた1872年の博覧会を「第一回京都博覧会」と称し、昭和3年までほぼ毎年開催された。
 きっかけや、いきさつはまるでわからないのだが、京都博覧会社は、外国人が入域することを禁じている京都に、外国人客を呼ぶことを考えたのである。明治の初めだから、「国際観光都市・京都」を意識するにはまだ早いような気がするので、外国人にも博覧会の出品者になってもらいたいという意図があってのことかもしれないが、京都府は外国人の京都訪問の許可を政府に願い出て、すぐに許可された。1872年の第一回京都博覧会には、770人の外国人客が博覧会にやってきた。
 そういう状況の下、より多くの外国人客を京都に呼び寄せるために、英語のガイドブックを作った。外国人が書いた日本の旅行ガイドはすでに出版されているが、このガイドはおそらく英語で書かれた日本最初の京都のガイドブックであり、日本人が作った日本最初の英語のガイドブックだろう。その書名は、ちょっと長い。
“The guide to the celebrated places in Kiyoto & the surrounding places for the foreign visitors” by K.YAMAMOTO、Published by NIWA , The sixth year of Meiji , 1873
 明治6年に出版されたこのガイドブックの著者、K.YAMAMOTOとは、京都府顧問山本覚馬、NIWAとは、盲目の山本を補佐する書記官である丹羽圭介のことである。元会津藩山本覚馬は、日本最初の英語の旅行ガイドブックを書いた人物でもあるのだろうか? この本はいかなる工程を経て出版されたのか。その疑問を明らかにしたくなった。
 『闇に虹をかけた生涯 山本覚馬伝』(吉村康、本の泉社、2013)では、妹の八重と「丹羽圭介の妹だという人と二人を前にして、覚馬は半紙に墨書した横文字の文章を見せ、『これから、英語の京都案内を作ってもらいたい』」と言ったというのだが、すでに視力を失っている覚馬が、英語でガイドブックの原稿を書いたという説明は、どう考えてもおかしいのだが、覚馬関連の本を片っ端から読んでみると、同様の手順だとする説が多い。筆者たちは、矛盾を感じていないらしい。
 京都府立総合資料館の「総合資料館だより」(2013,4,1)では、「覚馬が原稿を作り」、「丹羽圭介らがそれを英文にしました」となっている。覚馬が口述し、丹羽らが英語に翻訳したというなら、理解はできる。「原稿を書き」とはせず、「原稿を作り」としたのは、そういう意味だろうか。同資料には、丹羽自身の次のような談話も紹介している。「これは当時京都第一の新知識であった山本覚馬氏の指導により私が主となって拵えたものであるが、もちろん京都最初の欧文活版印刷であった」。
 山本覚馬の評伝としてはもっとも詳しそうな本で調べてみる。1928(昭和3)年に出版された『山本覚馬伝』(青山霞村著、同志社発行)の増補改訂版(京都ライトハウス、1976)を復刻した、官帯出版社版の『山本覚馬伝』(2013)である。覚馬関連書が2013年に多く出ているのは、もちろんNHKの大河ドラマ「八重の桜」と関係が深いからだ。その『山本覚馬伝』には、英語の原稿を書いたのは海老名喜三郎と丹羽圭介だとしている。覚馬の次女みねと結婚した横井時雄(のちの同志社3代目総長)の妹みやと結婚したのが海老名喜三郎(弾正)という牧師で、同志社の8代目総長でもある。日本語の原稿の成立事情については何も書いてない。
 さて、どこかの図書館で48ページのこのガイドブックの現物を見ることができるだろうかと調べていたら、意外な事実がわかった。
 山本覚馬が書いたという英語の京都ガイドブックは、いくつかの大学で所蔵していることはわかった。しかし、「八重の桜」のブームに乗って、解説付き復刻版とか、このガイドに関連する書籍が発行されているのかもしれないと思い、さらに調べると、国会図書館の蔵書リストに意外な会社の名を見つけた。印刷機器などを製造している大日本スクリーン製造という会社だ。そこのホームページで、デジタル復刻版の一部を見ることができることが分かった、この会社とガイドブックの関係などは、ホームページに詳しい。
 http://www.screen.co.jp/profile/guidebook.html