600話 「蔵前仁一書きおろし著作集」企画 その1

 『読みやすい文章の書き方』


 天下のクラマエ師こと、蔵前仁一さんの文章は、けっして「美文」とか「名文」といったたぐいの文章ではないが、読みやすく、わかりやすい整った文章だ。想像するに、手塚治虫のマンガの電球のように、ピカッと文章のアイデアがひらめいたら、くわえタバコでパソコンに向かい、そのタバコを吸い終えるまでに4000字くらいの文章なら一気に書きあげ、出来上がりには問題がない。誤字があるのは他の書き手でもあることで、気軽に書いたからと言って、特に問題があるわけではない。
 雑誌の連載コラムに関して、「気楽に書いたような文章で、とても読みやすいです」と読者に言われた吉行淳之介は、「冗談じゃない!」と怒りの文章を書いた。「気楽に書いているという印象を受ける文章は、苦悩の末に生まれるのだ。易しく読める文章や、短い文章を書くのは楽だという誤解が、読者にはある」といった趣旨の文章だったが、どの本に書いてあったかの記憶はない。
 天下のクラマエ師の文章が、切磋琢磨、艱難辛苦、七転八倒の末に作り上げたのだと当人は言うかもしれないが、文面からは、とてもそういう印象は受けない。やはり、くわえタバコか、鼻歌まじりで書きあげた文章のように見える。
 文章を書くことを生業(なりわい)にしていれば、平易な文章を、しかも軽やかに書くことの難しさはよくわかる。自分の思い出話を書くのなら、楽しんで気軽に書けるかもしれないが、例えば「バルフォア宣言」とか「バラモン教」を200字程度で説明しつつまとまった文章を書いていく場合、自分の理解があいまいだと文章が硬直する。学者の文章がぎこちないのは、じつは書こうとする事柄の理解が不足していて、自分の言葉で説明ができないからだ。天下のクラマエ師は、そういう難しい作業をいとも簡単にこなし、軽やかにしてすばやく文章を書きあげているような、そういう印象を受ける文章を書く。それが事実だとすれば、まことにうらやましい。私が苦闘の日々を過ごしている間に、あの原稿も、この原稿も、右から左に書きあげて、コーヒーを飲んでドライブに出かけるような気がするのだ。私が作文に苦闘していると、「その才能をくれ!」と叫びたくなる。
 小林秀雄のように、読者の理解など毛頭考えていなかったり、わかりにくい文章であればあるだけありがたがるという奇妙な読者を相手にしていれば別だが、普通は、文章は読みやすい方がいいに決まっている。今はどうか知らないが、昔は国語の教科書に小林秀雄の文章がよく取り上げられたのだが、あの人の文章は悪文の絶好例として掲載するべきだ。
 蔵前さんと、「出版界における蔵前仁一の功罪」というテーマで雑談をしたことがある。いままで書いたように、彼の文章は平易だ。だから、「あんな文章なら、俺でも書ける。旅行記を書くのなんか、チョロいチョロい。しゃべるように書けばいいんだから」という誤解を旅行者に感じさせた。「いーかげんに、ちゃちゃっと書けば、旅行記がどんどん売れる」と旅行者と一部の編集者は考えて、粗製乱造の旅行記がちまたに氾濫することになった。そういう本を好む読者が多いのも事実であるが・・・。
地球を3周したとか、世界100か国を旅行したら、蔵前仁一よりもおもしろい文章が書けるという誤解も生まれたのだろうが、数多くの国を旅したからと言って、その分だけ質の高い旅行記が書けるわけではない。もう一度書くが、質の高い紀行文を多くの読者が求めているわけでもないというのも、また事実なのだが。
 さて、そこで、「蔵前仁一書きおろし著作集」の企画だ。いままで蔵前本の企画を勝手に何冊も立てて、蔵前さん当人には「はい、はい、ごくろうさん」か、あるいは「ふん」と鼻で笑われてきたのだが、そのくらいではへこたれない。またまた、企画案だ。前川企画は売れないという定説があって、それは残念ながら事実なので、旅行人から出すのは難しい。世の編集者諸氏、私の企画を採用しませんか。
 まずは、中高校生が読んでも理解ができて、しかも質は高いという文章の書き方を、ライターであり編集者である著者が指南する『読みやすい文章の書き方』だ。蔵前さんと親交のある人なら気がついているだろうが、ややこしい事柄、難しい問題を、池上彰のようにわかりやすく説明する才能が、蔵前さんにはある。そういう才能は、田中真知さんや森枝卓士さんにもある。
 蔵前さんの本には、文章の話だけでなく、旅先のスケッチ術のアドバイスも欲しい。編集者として気になる日本語、嫌いな日本語の話などの日本語論や、外国語の話も加える。そういう、読みやすくわかりやすい文章の書き方ガイドと言葉の話だ。田中真知さんとの共著だと、刊行が早まるのかあるいはかえって遅れるのか、さて、どちらだろう?