607話 最近の本の話 その1

 『追憶のカンボジア


 お付き合いでしかたなく、今もタイの小説を読んでいるが、本当におもしろくない。宇戸清治さんが翻訳する「ポストモダンとかいう、まるでおもしろくない小説」を、おもしろいとは思えないのだ。もともと小説が嫌いで、「文学的作品」に感動しないタチの私は、現地の風を浴び、文化のヒントをつかむ目的で、アジアの小説を読んでいる。だから、文学研究者が翻訳する「文学的価値の高い」小説は、おもしろくないのだ。
 出たばかりの『追憶のカンボジア』(チュット・カイ著、岡田知子訳、東京外国語大学出版会、2014)は、ちょっとおもしろい。「追憶の」というのは、カンボジアがクーメル・ルージュの大虐殺の悲劇に出会う前の、のどかな時代を、フランスに移住した作家が思い出して書いた物語だ。最後にはカンボジア脱出の物語になるのだが、大部分は1950年代から60年代の少年たちの物語だ。
 全三部からなっていて、第一部の「寺の子ども」がもっともおもしろい。と言うのも、私の関心分野である「出す話と食べる話」が出てくるからだ。
 時は一九五〇年代、物語の中心人物となる少年たちが暮らしているのは、コンポンチャム市の寺。メコン河岸から1キロほど離れている。寺の便所について、こういう記述がある。
 「便所は個室が全部で十五あり、地上から四メートルの木造高床式で階段が両側からついており、下は何もなく見晴らしのよいつくりだった。だが道に迷った通りがかりの人は、きっと食堂の下に十五個の蟻塚があると思ったに違いない。実はそれは大便の山だった。(中略)庫裏はそこから五百メートルほど離れていたが、強風が吹くたびに悪臭が漂ってきて、窒息しそうなほどだった」
 おそらく、農村では家々に便所はなく、「どこかその辺の林や、川や池で」となる。しかし、多くの人が暮らす寺では便所を作ったのだろうが、ただの垂れ流しだったというわけだ。実は西洋の城も同じで、城壁から突き出した空間が便所で、そこから外壁に垂れ流していた。
 昔のタイは、カンボジアと同じような事情だったと思うが、川か運河など水辺を便所にし、それが不可能な場合は、穴を掘っていた。1950年代のタイには、こういう便所はなかっただろうと思うが、その根拠はない。想像するだけだ。
 僧たちはどうやって尻を拭いたのかはわからない。しかし、寺で暮らす少年たちの場合は説明されている。
 「子どもたちは、その共同便所を利用できるような廻りあわせにはなく、バンレイシの畑に行くしかなかった。畑にある石はどれも托鉢の鉢のようにつるつるになっていた。(中略)子どもたちがその石でお尻を拭いていたのだ」
 子どもは石を使っていたが、大人? 上記の寺院の便所に関する部分では、僧侶がどうやって尻を拭いたのかという話はない。ビルマの小説に、竹のヘラを使っているという話が出てくる作品がある(その名も「便所」という短編小説だ。『現代ビルマ短編小説集 上巻』大野徹編訳、井村文化事業社発行、勁草書房発売、1983。私は小説の文学的価値よりも、日常生活の資料として重要な記述に価値を認める)。そういうヘラは日本でも使っていて、木や竹のヘラを糞箆(くそへら)という。ついでに雑情報を書いておくと、韓国KBSの放送で、米がとれない離島ではトウモロコシを主食にしていたと老人たちが語った後、トウモロコシの実をとった後の芯をクソベラとして使っていたという話をしていた。
 川で水浴びをするという記述もあるので、川で用を足せばいのに、大人も子どもも「垂れ流し」という習慣が、よく理解できない。インドなら、水差しか、それがなければ水を入れた缶を持って、野原や浜辺や林に行く。便所を作らない文化圏では、糞尿を農業には利用しないということで、東南アジアではその点が中国人移民と違うところだ。
 次は食べる話だ。先程のバンレイシの畑の話のなかで、「托鉢の鉢」という語が出てきたが、この物語に登場する寺では、どうやら托鉢はしていないようなのだ。こういう文章がある。
 「お盆の季節は子どもの待ち焦がれた時だった。お布施の料理を檀家の家まで取りに行くという毎日の重労働な当番もなく、寺は食べ物であふれた」
引用した個所以外にも、少年たちが村の家々に行き、食べ物を集めてくるシーンがあった。
 「毎朝、日が昇る前に、クリー先生とスオン先生は、私たち三人にコンポンチャム市場、メマイ村、ダイ・ドホ村などのお布施の料理を取りに行く当番を言いつけた。先生は竹製の天秤棒を一人に一本ずつくれた。私は一番小さかったので、四つか五つの弁当箱(重箱のように数段重ねた丸い容器で、持ち手がついている)が下げられるぐらいのもので・・・」などと説明が続く。少年たちの食事は、僧が食べ残した昼食を食べることになっているので、一日一回で、量も少ないようだ。いつも空腹な少年たちは、家々を回ってもらった料理を寺に運ぶ前に、道端でつまみ食いしてしまうシーンがある。僧は托鉢に行かず、少年が取りに行った料理を寺で待っているようなのだが、こういう例がカンボジアでは特殊なのか、比較的多いのか、そのあたりはわからない。
 追記 翻訳をなさった岡田知子さんから、托鉢に関する私の疑問に対して、コメントをいただきました。
 「同居しているカンボジアの上座仏教の『専門家』(1962年生まれ、地方での3日坊主経験あり)に、今聞いてみました。
 昔も今も、托鉢しているのは、プノンペンや、地方都市だけ、だそうです。田舎では、お寺から家が離れていることも多く、1軒、1軒、歩いて回ることは不可能に近いそうです。(ここで、またさらにお寺を中心にコミュニティができている、というのをよく耳にしますが、それはどうなっているのでしょう)。
 50年代頃であれば、人口も少ないだろうし、托鉢するには大変だったのではないかと。寺の子どもがまわらない場合は、今でも、集落で、僧侶に対するお食事を作って持っていく当番を決めて持っていくのだそうです」
 なるほど、そうでしたか。タイでも、人口が少なく、かつ広い村では、毎朝托鉢に行くのは大変なので、村人が交代で寺に行き、僧のために料理を作ることがあるそうだ。したがって、上座部仏教=托鉢と公式的に考えない方がいいようですね。