612話 最近の本の話 その6

 銀座とパリ 中編


 注文した本がすぐに届いた。『屋上の黄色いテント』(椎名誠、柏艪舎発行、星雲社発売、2010)は短編小説集だ。銀座を舞台にした「銀座の貧乏の物語」と「屋上の黄色いテント」の2作は期待していたほどにはおもしろくなかったが、予想外の収穫があった。「パリの裸の王様」だ。この短編で、私のなかの「椎名誠の謎」がひとつ解明した。その謎というのは、彼の初めての海外旅行はいつのことで、それはどういうものだったのかというものだ。それをずっと知りたかった。『日焼け読書の旅カバン』(椎名誠本の雑誌社、2001)に、こういう文章がある。サラリーマン時代の思い出話だ。
 「当時我々のまわりではやっていたのはモンブランの万年筆だった。パイロットとかセーラーなどといった国産万年筆が主流だった時代にこのモンブランを持つということは、安サラリーマンとしての唯一のステータスシンボルだったのだ。(略)初めてヨーロッパに旅行したときもモンブランを地元で買うのが、その旅の大きな目的であった」
 この「初めてのヨーロッパ」というのが、文字通り「初めてのヨーロッパ」なのか、それとも「初めての海外旅行」なのか分からず、長い月日が流れた。椎名誠の異文化初体験物語をいつか読みたいと思っていたのだが、その物語が「パリの裸の王様」という短編だった。まったく予想外の掘り出し物の発見だった。
 椎名誠の初めての外国旅行は、当時関わっていたデパート業界誌の取材で行ったパリだった。国内取材でさえ、「手紙と電話ですませろ」というケチ社長が、突然ふたりでパリへ取材に行くと言い出した。経費を全額出してくれるスポンサーが現れたのだ。
 「デパートの三越がパリに小さな店を出し、その開店祝いのためのイベントをいろいろやることになった。それにからむ取材のお金は全部三越から出ることになっていた。しかも二人分も」
 三越の納入業者や関連業者800社が、忠誠心を見せるために自腹でパリに馳せ参じるなか、椎名が編集している業界誌は「パリ三越特別版」を出すという約束で、三越お抱え取材を敢行することになったというのである。短編表題の「パリの裸の王様」とは、羽織袴姿の三越社長岡田茂が、振袖姿の「三越ファッションシスターズ」7人を引き連れてパリを散歩するというシーンのことで、そのシーンの撮影者のひとりが椎名誠だったというわけだ。
 調べてみれば、パリ三越の開店は1971年6月だった。国際経済史のなかで、記録に残る年だ。1971年8月15日が、いわゆる「ニクソン・ショック」の日だ。ドルの固定相場制が崩れるきっかけとなる日で、日本ではそれまで固定されていた「1ドルが360円」という為替レートが崩れ、12月に「1ドルが308円」という固定相場に安定させようとしたが長続きせず、73年2月についに変動相場制になり、ドル安円高へと移行していく。そういう時代のきっかけとなるのが、1971年だった。
 というわけで、パリお抱え取材のころは、まだ「1ドル・360円」時代だ。アゴアシ付きのお抱え取材とはいえ、個人支出分は自腹のはずだから、全財産をかき集めての大旅行の気分だったのだろう。1971年に、外貨持ち出し限度額が1000ドルから3000ドルに枠が広がったが、3000ドルは108万円である。この年の小学校教員の初任給は約3万2000円だから、限度額いっぱいの外貨を持って旅行できる観光客はほとんどいなかっただろう。ちなみに、この本に収められている別の短編「銀座の貧乏の物語」によれば、1967年の月給は2万円に届かなかったという。23歳の若きサラリーマンは「せめて年齢くらいのサラリーは欲しい」と思っていた。1971年になって、4万円を超える月給になっていたとしても、税金や厚生年金などを天引きされると、手取りは3万円ちょっとだろう。そういう時代の海外旅行だったのである。
 「パリの裸の王様」はタイトルでわかるように、三越社長岡田茂に焦点を絞った作品だから、異文化初体験にテーマを置いた作品ではない。それでもこの「パリの裸の王様」は興味深い短編だと思う。椎名誠が初めて商業誌に発表したという短編小説「ラジャダムナン・キック」(『ジョン万作の逃亡』に収載)を私が気に入っているのも、「パリの裸の王様」と同じように、お世話係なしの旅話だからかもしれない。

  様々な資料で、パリ三越開店は1971年になっているが、上に書いた開店記念パレードは1973年だったらしい。詳しくは1969話参照。