613話 最近の本お話 その7

 銀座とパリ 後編


 椎名誠の『風景は記憶の順にできていく』(集英社新書)に関連するこのコラムでは、タイトルどおり「銀座とパリ」の話だけ書く予定だったのだが、どうしても新宿の話を加えたくなった。この新書の最終章「新宿―旅人は心のよりどころに帰って来る」を読んでいて、新宿駅南口の思い出話に刺激されたのだ。
 「ほんの少し前は、この階段のあるあたりはおよそまともな人は遠ざかる汚い界隈で、そのほうがもっと人間的だった。階段に添うように見るからに汚い公衆便所があって、半径三〇メートルにはその悪臭がただよっていた。そのまわりには、その当時の言葉で言う「浮浪者」や「ルンペン」がたむろしていた」
 こういう文章を読むと、過日の新宿駅南口の風景が鮮やかによみがえってくるのだ。新宿駅南口を出ると甲州街道に出会うのだが、改札を出て右に行くか左に行くかで、その風景が大きく違った。改札を右折れてしばらく歩きだすと、ヨドバシ、さくらや、ドイといったカメラの安売り店に出るのだが、改札を出て左に歩きだすと、「これが近代都市トーキョーか!」と驚くような世界が広がっていた。その一部はこのサイトでうかがえる。
http://www.dagashi.org/tokyo/shinjuku_se.html
 1960年代末から新宿をうろついていた私にも、南口左側は異界であった。新宿はその街そのものが異界の集合体でもあって、かつての都電の線路沿いがそのまま残っている場所やゴールデン街や、かの新宿三丁目と比べても、充分に勝負になる異界がここ南口だった。
 南口が異界らしさを見せつけていたのは、1970年代末までだろう。新宿駅南口の異界は、1980年代前半にはなかば廃墟化して残っていたのだが、新宿駅埼京線が乗り入れた1986年に、それと同時に新宿駅東南口ができて、あたり一面の「渋谷化」がほぼ終わった。
 かつて、南口を出てすぐ左に、昭和天皇の即位を記念して建てられた大きな石の昭和天皇御大典記念塔があった(現在は、新宿・熊野神社に移設)。そして、場違いにも、その記念塔を囲むように、いわくありげでみすぼらしい、木造平屋建ての小さな飲み屋が並んでいた。そのなかの比較的大きな建物に、「ヌードスタジオ」の文字が書いてあった。もう営業はしていないようだった。ヌードスタジオがどういう場所かということは、すでに小沢昭一の文章で知っていた。店に入ると、カメラを渡される。「撮影をするスタジオ」だという設定になっているのだ。女性モデルが待機していて、客の求めに応じてポーズをとり、客が支払う金額に応じて服を脱ぐというシステムだったらしい。モデルをより薄着にさせるには、より多くのチップが必要になるというシステムだと小沢昭一は書いていた。そういう商売の店が、天皇即位の記念碑と向かい合っていたのである。
 飲み屋の列を左に見て進むと階段があり、降りると椎名誠が書いている公衆便所が右手にあった。そして、その並びにも飲み屋があった。私は酒を飲まないのだが、あの雰囲気にたまらなく好奇心を刺激されて、酒飲みの友人を誘って、1980年代初めのある夜に、飲みに行ったことがある。1980年代に入ると、階段上の飲み屋の列は、建物は残っていてもすでに営業はしていない店がほとんどだったが、階段下は暗黒の世界に包まれてつつもまだ現役だった。焼き鳥を焼く煙が店を包みこんでいたのは覚えているが、公衆便所の臭気は覚えていないが、便所の隣りで飲んだのは覚えている。新宿駅のすぐ近く、歩いて1分もかからない所に、深い闇に覆われた怪しい一角があった。
 その頃の私も友人も、まだ出版界では大海を漂う魚のタマゴでしかなかった。将来の展望などなにもなかったが、毎日がおもしろかった。売れる原稿が書けるようになることよりも、アフリカで遊びたいという欲求のほうが強かった。
 昔の新宿の思い出話は、本にもネットにもいくらでも登場しているだろうが、そういう文章を書いている誰もが、いまの新宿をおもしろいとは思っていないのではないだろうか。私も新宿に行く機会はめっきりと減った。もともと紀伊国屋書店とはあまり相性は良くないので長居することもなく、もっぱらディスクユニオンで中古CD漁りをして数時間を過ごす以外は、用が終わればすぐさま新宿を離れ、四谷や新大久保方面へ散歩に出る。
 新宿南口といえば、すぐ目の前にタカシマヤタイムススクエアがあるが、その裏手は今は新宿4丁目と表示されるが、かつては「新宿旭町」という住所で、いわゆるドヤ街だった。ドヤ、つまり労働者の簡易宿泊所なのだが、そこになぜか西洋人旅行者(当時はまだ「バックパッカー」という呼び名はなかった)のたまり場になっている宿があり、高校生の私が出没していたという1960年代末の話は、また別の機会に。