614話 「水を飲め」の歴史

 その昔、運動部員は練習中は水を飲むことを禁じられていた。「水を飲むとバテるから」というだけで、科学的説明はなかったと思う。日本の何万もの体育教師や運動指導者たちが、その説を金科玉条として信じて疑わなかったのだから、脳みそ筋肉人間の行動は恐ろしい。「考える」ことを拒絶させ、「絶対服従」を信条とする集団は、まことに恐ろしい。
 そういう運動部員たちが、一転していつからか「水を飲め」と厳しく言われるようになった。運動選手だけでなく、一般人も、夏でも冬でも、医者は「とにかく、大量の水分を摂りなさい」というようになった。運動選手が水をがぶがぶと飲めるようになったのはいつなのか、身近の人々に聞いてみた。30代後半の男は、「僕がサッカー部員だった中学と高校でも,『水は飲むな』と厳しく言われてましたよ」とのことで、どうやら、地域によって、学校によって、指導者によって違うのだが、1990年代のある時期に、「飲むな!」から「飲め!」に大転換したと推察できる。
 1990年代になにがあったのだろうか。運動関連の動きはわからないが、医学的な動きはわかる。それまで日射病や熱射病(高温多湿の室内でおこる症状)などと言い分けてきた症状を、すべてまとめて「熱中症」と呼ぶようになったのが、1990年代らしい。
 1970年代のヨーロッパ旅行記や旅行ガイドを読むと、「ヨーロッパでは、水を瓶に入れて売っている」、「カネを出して水を買うのだそうだ」、「ワインよりも高い水がある」などと驚きを書いているのだが、「飲み水を買う」という行為が日本でも奇異なことではなくなったのが、この1990年代かららしい。
 ペットボトル入りの水の輸入量と国内生産量の合計を調べてみると、こういう変化がわかる。単位はキロリットル。日本ミネラルウォーター協会調べ。増加量は2000年代に入ってからのほうが多いが、増加率は90年代に10倍の増加だとわかる。
 1988年 10万kl
 1990年  18万
 1991年  28万
 1993年  41万
 1995年  65万
 1997年  79万
 1999年  113万 
 2006年 235万
 2011年  317万
 2013年  326万 
 おそらく、1990年代に、医学界と役所から、「水を飲め」という運動がおこったと思われる。たしかに、地球温暖化による気温の上昇というのはあるだろうが、考えてみるとじつはよくわからない。「水を飲むな」と言われていた時代、エアコンは今ほど普及していなかった。それなら、エアコンが完備し、水をよく飲むようになった現在よりも、昔のほうが熱中症死亡者がはるかに多かったはずなのだが。どうやら事実は逆らしい。1960~80年代熱中症死亡者統計がないのでよくわからないのだが、日射病や熱射病の死者は今よりも少なかったようだ。それは、死因の分類といった統計が原因なのか、それともやはり気温の上昇が問題なのか、私にはわからない。
 水を「飲むな」、「飲め」という話や、熱中症の話は、資料をていねいに探せばかなり見つかるだろうが、暑いのでさぼる。今年も、私の部屋にはエアコンはなく、麦茶と扇風機を友として、読書を楽しんでいるのである。涼しい部屋にいらっしゃる皆さまからの情報提供を、お待ちしています。