621話 中国のおにぎり

 



 母は上海で育ったが、中国料理の思い出話はあまりしなかった。祖母は基本的に日本料理しか食べない人で、しかも偏食の激しい人だったらしく、おまけに「支那人」を見下していたから、中国の食べ物を極力、口にしなかったらしい。中国の食文化との出会いは、中国が好きだった祖父と、散歩のときに限られていたようだ。
 中国を旅行するテレビ番組を母と見ていたときだ。「ああ、これ。こういうおにぎりが上海にもあって、揚げパンを包んで・・・」と、思い出を語り始めたことがあった。画面では、野球のボールほどの大きいおにぎりを作っている人の姿が映っていた。その当時は、画面の揚げパンをタイではパートンコーと言うことは知っていたが、中国語で油条(ユーティヨウ)と呼ぶことはまだ知らなかった。画像や詳しい説明は、以下に。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E6%9D%A1
 その現物を見たのは、翌年の香港だった。ある日のこと、朝飯に何かおいしそうなものはないかと路地から路地へと徘徊していたら、樽に詰まっているご飯を取り出し、ふきんに包んで握っている人がいた。路上販売で、屋台でさえない。男は揚げパンを強く握って小さくし、おにぎりの具にした。肉や野菜を煮たものを包むならわかるが、揚げパンを具にしたおにぎりは私の理解力や想像力を超えていたが、「これが、母が話していた中国人のおにぎりか」とわかった。
 以後、このおにぎりを見たことがない。東南アジアのどの町でも見た記憶がない。米とあの揚げパン(パートンコー)のあるタイでも、同じようなおにぎりはなかった。ただし、もち米の飯を使った焼きおにぎりはある。カピ(エビ味噌)を入れた溶きタマゴをおにぎりに塗って、炭火で焼くもので、適度な塩味とうまみがある。バンコクの中国語書店で買った『中国米食』(英文漢聲出版、1983、台湾)によれば、台湾ではおにぎりを「飯○」(米偏に團)というらしいことがわかったが、現実にどれほど食べられているものかはわからない。私が知っている中国人とおにぎりの情報はこれだけだった。
 それから長い長い年月が流れ、つい先程、あのおにぎりの情報に出会った。上海出身の中国人で、明治大学教授が書いた中国食文化の本、『中国人の胃袋』(張競、バジリコ、2008)に、「中国風のおにぎり」という見事なコラムが載っていた。わずか8ページの文章だが、内容が深い。そのごく一部を紹介してみよう。
 中国のおにぎりは、中国のごく一部、上海をはじめ江蘇省の南部から浙江省の一部で食べられているらしい。その名は、「粢飯」(チーファン、粢は「祭祀の供物」の意味)、「粢飯団」(チーファントゥアン)、「飯団」、「飯団子」のほか、「餈飯」や「糍飯」という表記もあるようだ。どうやら、これらのおにぎりは家庭で作るものではなく、屋台などでプロが作るものらしい。現在では電気炊飯器を使うようだが、伝統的にはモチ米とウルチ米を混ぜて、一晩水につけてセイロで蒸す。つまり、おこわを作って、それを握るのだ。「なぜか家庭ではつくらない」と、張競氏も書いている。中国のおにぎりのもうひとつの特徴は、朝飯としてしか食べないことだそうだ。
 中国式おにぎりの具は2種類しかないそうだ。ひとつはすでに触れた油条であり、もうひとつは砂糖だ。たっぷりの砂糖を飯で包むのだ。具はこの2種類しかなく、日本のように塩辛い料理を具にすることはないという。
 次は、おにぎりの食べ方に話が進む。おにぎりを食べる地域が限られている理由を、著者は「手と食べ物」の関係ではないかと見る。食べ物を手づかみで食べるのは「乞食の食い方」だと忌み嫌う人々には、おにぎりは受け入れられない。ご飯を椀に入れて食べるなら、握る必要はない。したがって、おにぎりのある地域は、手食を認める地域なのだというのが著者の説だ。ただし、ここまでは漢族の話で、少数民族にはおにぎりはあると記している。
 近代化の中で、おにぎりは「古臭い」食べ物というイメージがあって、しだいに衰退してきたのだが、新型のおにぎりが華々しく登場した。コンビニで売っている日本式おにぎりである。
http://www.shanghainavi.com/special/5048586
http://www.airtripper2.net/cscn.html
 このほか、「上海 中国 おにぎり」で画像検索をすれば資料はいくらでもでてくる。
 韓国のおにぎりも、今はコンビニの日本風おにぎりが普通になってきたが、昔からあるらしい。野球のボールのような球形で、チュモクパプ(こぶし飯)という。具は入っていないようだ。「ホジュン」や「奇皇后」といった韓国ドラマにも、貧しい食事としてしばしば登場している。しかし、貧しい者たちが、米がたっぷり入ったおにぎりを食べることができたかどうか、かなり怪しい。雑穀や豆などが入ったものなら、パラパラパサパサで、たぶん握れないだろう。