622話 ある美人中学生

 本を読むのに疲れて目をあげると、電車内はかなりすいていて、けだるい午後の陽がさしていた。斜め向かいに、かわいいというよりはむしろ「美人」と言ったほうがふさわしい中学生が、ひとり座っていた。スマホで遊ぶでもなく、本をひろげるでもなしに、所在無げにぼんやりしていた。その女の子の姿を見たとたん、小学生時代に記憶が飛んだ。
 彼女の名を、仮にサトーユーコとしておこう。小学校4年から6年まで同じクラスだった。今振り返ってみれば、「学校一の美人」と呼ばれていたとしても不思議ではないのだが、おそらく誰もそんなことは思ってもいないだろう。彼女が大好きだと言っていた男も知らない。私にとっても、ただの同級生のひとりでしかなかった。ただし、今も姓だけは覚えているという程度には、印象に残っている存在ではある。
 ユーコの家は親しい級友の近くにあり、友人といっしょに下校すると、彼女といっしょになることも珍しくなかったが、とくに親しくなることはなかった。彼女は性格が悪く嫌われていたというわけではない。高慢であったわけでもなく、わがまま放題であったわけでもない。マイナスの要素はまったくないのだが、残念ながら外見以外プラスの要素もまったくなかった。いつも明るいとか、勉強がよくできるとか、スポーツ万能とか何かの楽器が得意だとか、話がおもしろいとか、そういうアピール点が何ひとつなかった。そう、みごとに何もなかった。存在感もなかった。もしかして、密かにあこがれているという男がいたかもしれないが、私の耳には入ってこなかった。
 中学に進学したとたん、彼女をとりまく環境はその瞬間に一変した。私とまた同じクラスになったのだが、それは異常事態の発生に気がつくことでもあった。別の小学校から来た1年生や、上級生たちは、美人の1年生の入学に沸き立ち、休み時間になると、1年生も2年生も3年生も、我がクラスの「噂の美少女」を見物にやってくるのだ。特に、ちょっと不良がかった生徒が、しょっちゅう見物にやってきて、争って「俺の女だ」宣言をしていた。
 4月の学級委員選挙で、「よくしゃべるヤツ」という点だけで私が学級委員にされ、ユーコがビジュアル面で圧倒的な票数を集めて、副委員になった。
 職務上、ユーコといっしょにいることが多かった。当然、いっしょに会議に出るし、作業もいっしょだった。だから、私は数多くの男たちのネタミを買った。「なんだ、あいつ、いつもいっしょにいやがって」とねたまれるのだが、私に恋の芽生えなどまるでなく、ただ時間が過ぎていった。彼女に魅力を感じたことがないのだ。
 彼女にとって気の毒だったのかもしれないが、中学の級友たちも小学校の時と同じように、ユーコには何の魅力もない事に気がついたようで、後期の学級委員選挙では、彼女は副委員には選ばれなかった。ユーコよりビジュアル面では数段落ちるが、それ以外の点では魅力的な級友が選ばれた。学級委員は、あいかわらずよくしゃべる私である。
 2年生になり、ユーコとは別のクラスになり、3年でも同じにはならず、その間に彼女の周囲でどういう出来事があったのかまったく知らない。話をしたことはないし、廊下で出くわしても、目礼さえしなかったと思う。噂も聞いていない。
 こういう文章の流れだと、「実は彼女はのちに・・・・」という驚愕の事実を期待しているかもしれないが、そんなことはない(と思う)。中学卒業後のことは知らない。ユーコは高校に行ったような気もするが、はっきりとした記憶はない。ただ、あの美貌だから、芸能界に入るかもしれないという予感はあったが、テレビや雑誌で彼女の姿を見かけることはなかった。ただ、たった一度、あれは20歳を過ぎたころだったか、銀行の前に置いてあった定期預金勧誘の等身大の人型看板が彼女だったことは覚えていて、「ああ、やっぱり、この道に進んだんだな」と思ったことがある。
 中学時代のことを思い出していたら、3年生の時に、1学年下にかなりかわいい子がいたのを思い出した。2年生だということは知っていたが、クラスも名前も何も知らない。校内で見かけると、他を圧倒して目立つ存在だったが、ただそれだけのことで話などしたことはない。
 あれは学期末の大掃除の日だった。校舎裏の焼却炉にゴミを持っていったら、私のすぐあとにその彼女が同級生らしき少女といっしょにやってきた。私の用はあらかた終わったのだが、適当に手を動かしながら、ふたりの会話に耳を澄ました。
 「この前、電車でね」とその彼女が話し出した。「けっこう混雑しててさあ、誰かが後ろから傘の柄でお尻をつついているみたいで、振り返ったらさあ、大学生みたいな男がいて、でもね、傘は持っていなかったのよ・・・・」
 「・・・・。うわー! もう、いやだ! エッチ・・・」
 「ハハハ」
 ふたりの少女は、けらけらと高らかに笑いころげた。この話の意味は、焼却炉のそばに立っている童貞中学生にも解読はできたが、刺激が強すぎて、高熱に襲われたように、しばし呆然としていた。
 夏の午後の電車は、そういう思い出遊びをするのにふさわしい場所だった。