649話 きょうも散歩の日 2014 第7回 

 カサブランカ 〜ワルザザードで会ったあなたに〜

 
 ワルザザードで出会ったあなたは、「大都会が嫌いだから、カサブランカには行かない」と言っていて、たしかにガイドブック的には「見るべきもの」があまりないカサブランカではあるが、街散歩が好きな私には、興味深い街でした。ある日の日記には、こんなことが書いてあります。
 
 メディナ(旧市街)に入ると、マラケシュの市場のような商店が並んでいるが、数分も歩かないうちに、静かな住宅地になった。どこかから潮の匂いがする。魚の匂いかもしれないと思っていたら、後ろから歩いてきた少年ふたりが、氷漬けにしたイワシが入った木箱を持っていた。この魚の匂いだったのか。少年は私を追い抜き、路地に消え、またしばらくすると私の後ろを歩いていた。レストランに魚を配達しているのだろうか。
イワシを持った少年の姿が消えても、魚の匂いがした。潮の匂いだろうかと思っていると、急に風景が開け、公園に出て、その向こうに船が見えた。カサブランカ港だ。船が多すぎて海は見えないが、そこには地中海に限りなく近い大西洋が開けているはずだ。
 海が見たくて左側に進んでいくと、遠くにハッサン2世モスクが見えて、海が見えた。海沿いに道路ができている。新しい道路で、その脇は造成工事をしている。その昔、建設労働者だった記憶の名残で、建設工事をやっていると、ついつい眺めてしまう。おそらくここに高級ホテルができるに違いない。道路から海を覗いたら、砂浜などなく、むき出しの岩が広がっていた。宮崎県青島の「鬼の洗濯板」のように、波状の岩が広がっている。
道路わきで、ウエットスーツを着た女性が、その上から服を着ている。この海で、ひとり泳いだ勇気ある女性だ。すぐ下は、岩の大広間を40メートル四方くらい掘り下げて、プールが作ってある。子供も大人も泳いでいる。もちろん、みな男たちだ。10月だからもう寒く、震えながら、泳いでいる。そうか、きょうは日曜日だ。釣りをしている人も多い。調理道具を持ってきて、海辺で野外の食事会をしている男たちもいる。みんな、楽しそうだ。
 午後遅くなって、トラム(路面電車)遊びをすることにした。国連広場からトラムに乗り、街の東側終点の駅まで行ってみることにした。Sudi Moumen Terminus という終着駅に何があるのか全く知らないが、何があってもいいし、何もなくてもいい。行き当たりばったりの旅がいい。トラムに乗って、車窓から風景を眺めている時間が大好きだ。
 終点は団地だった。今回の旅はカメラを持って来なかったが(もちろん、スマホも持っていない)、今はカメラを持っていればおもしろかったかと思った。モロッコの団地写真を撮る日本人など、少なくとも旅行者では私のほかにはいないだろうと思ったからだ。団地の窓には鉄格子が入った家もあり入っていない家もあり、どうやらオプションらしい。ということは、賃貸ではなく、分譲か。窓には、シャッター式の日除けがついている。ベランダの面積が狭いから、洗濯物を干すスペースは狭い。屋上から何本ものコードが垂れ下がり、インドボダイジュのようになっている。衛星放送のコードが、タコ足配線となって、アンテナと10戸ほどの家を結んでいるのだ。モロッコでも、市の中心地の高級アパートのベランダには洗濯物は干してない。
 団地の周りを散歩する。母に手を引かれて家路につく少女は、何がうれしいのかスキップしながら母に話しかけている。カフェで父の隣りに座っている少年は、大人の仲間入りができたのでちょっと得意そうな顔をして腕組みしている。テーブルのピンクの飲み物は日本ならイチゴミルクだが、ここではザクロジュースに牛乳でも入れたものだろうか。団地の広場には、野菜や果物の行商人が集まっている。ロバや馬が引いてきた荷台には、ザクロ、ニンジン、リンゴ、レモン、オレンジなどが山と積まれ、客を待っている。体の大きい馬は特別扱いなのか、行商人たちから腐りかけた野菜や果物をもらって食事中だ。ロバは、黙ってじっと立って何もない空に目を向けている。虚空という言葉が頭に浮かんだ。ロバは、ニヒリストである。
 団地広場の、家族にも、馬にも、ロバにも、行商人たちにも、赤い夕陽が当たって輝いている。世界のほとんど誰にも知られることのないこの団地と、そこに今いる人たちの生活を眺めているこの時間が好きだ。世界遺産よりも、私には美しい。この美しい世界に、幸あれ。頭の中では、”What a wonderful world”(なんと素晴らしきこの世界)が流れていた。
 https://www.youtube.com/watch?v=A3yCcXgbKrE
 ずっと後になって、意外な場所でこの曲に偶然出会うことになるのだが、それはまた別の話。