658話 きょうも散歩の日 2014 第16回

 カタルーニャ語


 バルセロナの空港に着いたときから、なんだか変だった。表示されている言語に見覚えのない言語がある。フランス語でもイタリア語でもない。salidaはスペイン語、sortieはフランス語で「出口」だとわかるが、sortidaという表記もある。「あっ、そうか。カタルーニャ語か」と気がついた。不勉強だった。私はカタルーニャ語というのは方言だと思っていた。関西空港大阪弁の表示はないように、バルセロナの空港に[方言であると思っていた]カタルーニャ語の表示があるとは思わなかったのだ。カタルーニャ地域で話されているカタルーニャ語は、スペイン語や英語ではカタランといい、カタルーニャ語ではカターラというが、ここではわかりやすさを優先してカタルーニャ語と書く。
 朝の街を歩く。路上でコーヒーを飲んでいる人に、歩いて来た人が声をかけた。
 「ボン・ディア」
 「ああ、ボン・ディア」
 ポルトガル語か? “Bom dia”ならポルトガル語だが、この場合は”Bon dia”。カタルーニャ語でそう言うのだとわかった。スペイン語なら、”Buenos dias”になる。スペイン語とは、正確に言えばカスティージャ語(カスティーリャ語)のことで、マドリッドを中心とするカスティージャ地方(元のカスティージャ王国)の言葉という意味。ややこしいと思うので、ここでは「スペイン語」という表記を使う。バルセロナがあるカタルーニャ国は、1714年にスペインに併合されて、カタルーニャでもカスティージャ語が「スペイン語」として公用語になった。フランコ独裁政権下(1939~1975)では、カタルーニャ語は使用が禁止された。カタルーニャ語の本は焚書となり、公共の場から消された。あのガウディーは、警官に職務質問を受けて、カタルーニャ語で話したために、それが反抗的態度だということで逮捕されている。カタルーニャ語カタルーニャ州公用語として認められたのは、独裁者フランコが死んで4年後の1979年のことである。
 そういう意味でも、カタルーニャ出身の建築家の名前を、スペイン語の「アントニオ・ガウディ」ではなく、カタルーニャ語の「アントニ・ガウディー」とした方がいいように思う。カタルーニャバルセロナの事柄について語るとき、どの言語の音で表記するかという問題は、なかなかに難しい。
 ついでに解説しておくと、オーウェルの『カタロニア讃歌』(“Homage to Catalonia”)のカタロニアは、「カタルーニャ」の英語表記だ。イタリアのVeneziaを英語でVeniceと書くようなものだ。日本でもながらく「カタロニア」という表記が普通だった。歴史学者樺山紘一の『カタロニアへの眼』は1979年の出版で、90年に中公文庫に入っている。カタルーニャについて語りながら、「カタロニア」という表記にこだわったのは日本の慣習に従ったということと、この『カタロニア讃歌』の影響だと、著者は「あとがき」で書いている。
 もうひとつ、ついでの話。Homageは「ホメッジ」と発音する。元の言葉はフランス語で、mがひとつ多くhommageと綴る。発音は、「オマージュ」。
 ほんの少しでもカタルーニャ語がわかってくると、地図も道路の標示もカフェのメニューも、カタルーニャ語で書いてあるとわかる。つまり、会話がカタルーニャ語というだけでなく、私のようなごく短期間しか滞在しない外国人旅行者にも、書き言葉のカタルーニャ語がいくらでも目につく場所にあるとわかる。
 バルセロナの地図を見ていて「あれっ?」と気がついたのは、通りの名にcarreという語がついていることだ。Carre XXで、「XX通り」という意味になるのだが、マドリードではcalleと覚えていた。これで「カジェ」と発音するのだというのが、私のスペイン語入門編の初歩の初歩だったが、カタルーニャ語ではcarreになる。南米で研究を続けている学者の話では、南米では、calle とcarreの両方を使って、南北と東西の通りを区別している国があるそうだ。
 Café amb llet と、カフェの壁に張り出したメニューに書いてあった。コーヒーの一種だとはわかるが、どういうものかわからなかったので、店の客に教えてもらった。これがスペイン語なら、Café con leche(カフェ・コン・レチェ)、英語だとCoffee with milkということになる。フランス語なら Café au lait(カフェ・オ・レ)、イタリア語ならCaffè latte(カフェ・ラッテ)。ミルク入りコーヒーのことだ。スペイン語のconが、カタルーニャ語ではambになることがわかった。
 バルで食事したときに、「パンはいるか?」と聞かれたので、「はい」と答えた。パンはPanで、スペイン語でも「パン」だ(日本語のパンはポルトガル語起源)。食事代を支払ったときにもらったレシートを見ると、「Pa 0.30€」になっている。Paは誤植ではないと思うが、念のため辞書を引いたら、カタルーニャ語のパンだった。スペイン語で水はaguaだというくらい知っていたが、カタルーニャ語になるとaiguaとなって、ちょっと綴りが変わるが、スペイン語と同系の言語だから連想できるものは少なくない。
 もちろん、スペイン語とはまったく違う単語はいくらでもある。見れば理解できる単語でも、発音が違うので、聞くとわからないということが多いようだ。私のような言語学の素人の印象では、スペイン語はいくつかのポイントを押さえればローマ字読みでかなり通じるが、カタルーニャ語は綴りと発音がずれていることが多いので、文字を見ても発音がわかりにくい。ちなみに、Café amb llet は、「カフェアムイェー」のような音になる。