703 話 台湾・餃の国紀行 2015 第8話

「KANO」から離れて


 春節のある夜、いつものようにテレビのザッピングをやっていたら、映画「KANO」の映像が流れていて、ドキュメントか何かかと思ったら、映画そのものなので、そのまま見ることになった。まだ始まって間もないようだ。自社CMがたっぷり入るので、放送時間は3時間以上にもなった。そのCMによれば、いわゆる「正月特番」として、この「KANO」のほか、空撮で話題になった「看見台湾」や「魔女の宅急便」などを放送するらしい。
 「KANO」は、1931年に台湾代表として甲子園に出場した嘉義農林学校を描いた映画で、資料は多いので、詳しく知りたい人はこちらを見てほしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/KANO
 この映画は、大根役者と素人が出ているスポ根映画にすぎないというのが私の感想で、期待した水準に達していない。制作側にとって、野球の試合を見せるということが重要だったようで、演技よりも野球ができる若者を集めた結果、素人芝居になってしまった。台湾の多くの観客にとっては、その方がわかりやすくてよかったのだろう。だから、大ヒットしたのだが、残念ながら、私の好みではなかった。野球とドラマと言う点では、日本のテレビドラマ「ルーズベルト・ゲーム」を思い出す。こちらも、野球のできる若者を集めたのだが、野球しかできない者に重要な役を与えることはしなかったので、その印象は「KANO」とは全く違う。といっても、「ルーズベルト・ゲーム」を高く評価しているわけではないが・・・。
 資料によれば、野球の試合に力を入れた映画らしいのだが、あの映画の甲子園球場にピッチャーズ・マウンドがあっただろうか。甲子園の土がゴムの細切れではあまりに変だ。とうてい土には見えないのだ。
 もうひとつ気になったのは、この映画は台湾人が作ったものでありながら、日本人の視点で描かれていることだ。日本人の行動や思想を中心に描かれているので、まるで日本人が作ったような映画になっていることだ。だから、日本人にも好評なのだろう。まあ、この映画のことはどうでもいい。
 私と同年代かそれ以上の人で、多少なりとも台湾に関心があり、多少なりとも資料を読んできた人なら、嘉義農林が甲子園に行ったことはすでに知っているはずだ。この雑語林の515話で書いたように、もっと評価していいライターである鈴木明の著作で知ったのである。『続・誰も書かなかった台湾 ―  天皇が見た“旧帝国”はいま』(鈴木明、サンケイ出版、1977)に収められている「“蕃人”が甲子園に出た・・・」の章を読み返すと、この本のタイトル通り、「誰も書かなかった」内容だということがよく分かる。
 かつて台湾にあった「高砂義勇隊」なるものについて知りたいと取材をしていた鈴木の前に、ひとりの男が現れた。以下に、その部分を引用する。
  事の起こりは「ヒラノ」と名乗る小柄な老人が、夢みるように「この手で、甲子園でホームランを打ったことが、ウソのようだなァ」と洩らしたことに始まる。台湾の東南の奥地、新港付近での出来事であった。
 老人のこの話が信じられなかったので、鈴木は「日本で、高校野球を見たことがあるんですか」と質問している。すると老人は、「夏の甲子園大会に出場したんです」という。長い時間をかけて台湾を調べていたライターの鈴木さえ、台湾の野球史はまるで知らなかったのだ。それが、1970年代までの、日本人の台湾知識なのである。
 帰国した鈴木は、台湾と野球の資料を読み、台湾と日本の野球関係史を調べ始める。大正14年に、すでに台湾から日本に野球遠征があったことがわかった。嘉義農林の甲子園出場の資料を読んで、鈴木は現地に向かう。校舎は昔のままだった。甲子園出場時代に補欠だった選手が、今、教員になっていることを知って、鈴木は取材した。「あの日の興奮を、昨日のことのように憶えていたのである。彼はボクの前で、スラスラと当時のナインを書き並べた」。
 新港で会ったヒラノという老人は、当時の日本名で平野保郎。上松はすでに交通事故で亡くなっていたが、鈴木はほかのメンバーに会いに行く。キャッチャー東和一に会った。俊足の真山卯一にも会った。彼らの写真が載っている。1970年代後半は、当時の選手を直接取材する最後のチャンスだったとわかる。甲子園に出場した嘉義農林の選手たちは、日本風に言えば、明治から大正の生まれなのだ。
 このルポルタージュは、この野球チームを描いた映画よりも、はるかにワクワクする。