725話 ふたりの学者の死 その2


 松井さんの訃報を聞いてからわずか数日後の6月14日、文化人類学言語学西江雅之さんが亡くなった。
 西江さんも学会向けの論文はあまり書かなかったと思うが、一般書は数多く書いた。私は、単行本になったものはほとんどを読んでいる。西江さんが書いた最初の本は『スワヒリ語辞典』だが、一般書として世に出た最初の本は『花のある遠景』(せりか書房、1975年)である。この本は、私にとって思い出深いものである。この本を読んでしばらくして、雑誌「面白半分」での連載も読んだ。この文章は、のちに『マッチョ・イネのアフリカ日記』(新潮社)になったはずだ。ちなみに、「面白半分」には香港から帰国したばかりの山口文憲も連載していたが、その原稿は単行本未収録だと思う。
 1980年前後の私は、世界のどこかの地で定点観測をして、その街の話を本にしたいと考えていた。世界地図を頭に描き、思いついたいくつもの候補地のなかからナイロビに決定した理由の幾らかは、この『花のある遠景』や『異郷の景色』(晶文社、1979)、そして『旅人からの便り』(リブロポート、1980)などの影響もあったと思う。『花のある遠景』のことを考えると、アフリカとはまるで関係がないのに、韓国の本を思い出す。長璋吉の『私の朝鮮語小辞典』は1973年に北洋社から出版されて以後、手を変え品を変えて何度か出版されてきた。これは、いままでいくつもの会社から5回出版されている『花のある遠景』も同じだ。両書とも、出版されても売れないので、すぐに絶版になる。ところが、名著の噂が流れ、読みたい者が少なからずいるとにらんだ出版社が復刊するのだが、また売れないで、絶版。しかし、しばらくしたらまた・・・・、という繰り返しの歩みをしている。
 この2冊とも、名著と言っていい。前川が「すばらしい!」と大絶賛する本だから、あまり売れない。しかし、そのすばらしさがわかる少数の者からは強く支持されている。どこに魅力があるのかといえば、欧米以外で、文化人類学言語学の研究者が、都市を舞台に自分の周辺の物語を書くという例はなかったからだ。フィールドワークの記録ではなく、研究の成果を報告するわけではないエッセイだ。パリやベルリンならば、誰かが書きそうな話を、ナイロビやソウルを舞台に初めて書いた本である。西江さんの本はケニアの話でありながら、ライオンもガゼルも出てこない。そういう本は、実はいまでも珍しい。
『花のある遠景』以後、今日まで西江さんの著作をほぼすべて読んできたが、初期の「アフリカ」物を除くと、それ以後の作品はかつてほどの魅力を感じていない。はっきり言えば、食文化モノの著作はおもしろくない。それがある程度わかっていながら、ついつい買ってしまうのも、西江さんの魅力かもしれない。
 西江さんに初めて会ったのは、2000年だった。JTBの紀行文学賞の授賞式のあとの懇親会で話をする機会があった。西江さんはJTBから翌年出版されることになる『自選紀行文集』(2001)に関連して、表彰式に招待されていた。懇親会のテーブルでは、西江さんの隣りには、オートバイ世界旅行の加曾利隆さんがいた。雑誌「旅」にたびたび寄稿し、JTBから単行本も出している。加曾利さんと会うのは約20年ぶりだったが、そのころは私はただの駆け出し取材ライターだったから、当然ながら加曾利さんは私を覚えていない。私の隣りには、天下の旅行人の蔵前社主が座っていた。
 翌2001年も、紀行文学賞の授賞式の招待状が来て、また西江さんに会えるかもしれないと思って出席すると、西江さんの『自選紀行集』が出たこともあり、期待どおり西江さんが来ていて、前年と同じようにじっくりと話を聞くことができた。西江さんと会ったのはこの2回だけだが、時間にすればのべ4時間ほどの雑談を楽しめた。
 雑談だから、メモをしていないし、ましてや録音などしていないが、かなり覚えている。私の記憶力が優れているのではなく、すでに西江さんのことをかなり知っているからだ。大学生時代のことは、私もある程度知っている。早稲田の政経学部の学生だったが、大学で学べるあらゆる外国語の授業に可能な限り出席し、それ以外の時間は図書館で外国語の独習をしていた。図書館の開館を待って入り、閉館時刻になって出るという日々だったという。西江さんよりちょっと年下で、教育学部国語国文科の学生なのに、外国語の勉強に励んでいる学生がいた。のちに、ラオ(ラオス)語やタイ語インドネシア語の小説を翻訳したり、中国語やベトナム語の文献を使ってフランス語で論文を書いている歴史人類学の星野龍夫さんだ。星野さんは西江さんの存在を知っていたが、西江さんは「さて?」と記憶にないようだった。
 「さまざまな外国語がよくできるとんでもない学生」として西江さんの存在は学内では有名だったらしく、大学生でアフリカ探検隊を組織したときは、通訳としての参加を依頼された。ここまでのことは、本を読んで知っていた。探検隊は英語の通訳を考えていたのだろうが、西江さんはアフリカではアフリカの言葉を使いたかった。
 「あの当時、スワヒリ語の教科書なんて、世界に1冊しかなかったんですよ。だからソビエトで出版されたその教科書を取り寄せて、ええロシア語の本ですよ、もちろん、その本を東アフリカに向かう船中で読んだんです。それで、アフリカに着いて、通訳を始めたというわけです」
 それが、政経学部の学生時代の西江さんだった。