729話 ひとりで旅することは、自分と話をしていることだ


 先日、深夜。「オードリーのオールナイトニッポン」を聞きながら本を読んでいた。お笑いコンビ「オードリー」(若林正恭春日俊彰)のふたりがやっている深夜放送だ。そのなかで気になる話があって、目は本を離れた。昔なら、記憶のままに紹介するしかないのだが、いまはYoutubeで聞き直すことができる。話を分かりやすくするために、ちょっと加工はしているが、若林がこういう話を始めた。
 「名古屋の仕事の前日が休みになってさ、なんだか旅行したくなったんだ。すぐさま最終の新幹線に乗って、京都に行ったんだ。そう、「そうだ、京都、行こう」だよ。夜のうちに京都に着いていれば、翌日,丸一日京都にいられるからね」
 「ひとりで旅をしていたり、ひとりでドライブしていたりすると、「淋しくないの?」って、よく聞かれるんだけど、京都を旅していてわかったんだ。ひとり旅でも、ちっとも淋しくならないのは、ずっと自分としゃべっているからなんだ。独り言ってのとは違うよ。自分が自分に話しかけているんだ。自分でボケて、自分で突っ込んだり、「これ、どうなってるんだろ? わかんねえなあ。あとで調べとかなきゃ」とか、絶えずしゃべっているんだ。声に出しているわけじゃないよ。心の中でしゃべっているんだ。だから、ひとりで旅していても、ちっとも淋しくないんだって、わかったんだよ」
 私もそうだ。絶えず、話をしている。自分に話をしているだけじゃなく、誰かに解説しているという設定で、頭を整理していることもあれば、突然ある思い出が頭に浮かび、掘り下げることもあるから、「自分としゃべっている」だけではなく、「思い出としゃべっている」ことも少なくない。「そうか、前回ここに来たときにも、こんなことがあったなあ」と思い出したことをきっかけに、前回の旅のことが次々と浮かんで来たりする。あるいは、長距離バスで乗り合わせた人のいままでの半生を、その荷物や顔つきや服装などから想像したりする。
 ひとり旅ができる人とできない人の違いは、こんなことにあるのかもしれない。それは好奇心だったり、自問自答する探究心だったり、空想・連想・妄想の旅を楽しんだりといった具合に、自分一人で遊ぶすべを持っているかどうかだ。ひとり遊びが苦手な人は、旅の同行者を探さないと旅ができない。いつも誰かがそばにいないと、淋しくってたまらないということになる。
 想像することに慣れてくると、旅行地の現代史と自分を考え合わせたりする。旅行地の歴史や文化などがある程度はわかっている場合は、「もしこの国で1年過ごすとしたら、何をして過ごすか。どういう楽しみがあるか」などと考えたりする。あるいは、「たまたま自分は日本で生まれたのだが、もしこの国で生まれていたら、どのように生きただろうか」などと考える。フリーライターなどという虚業が成り立たない国なら、ゲストハウスの客引きから出世して、30代には雇われマネージャーになっているかもしれないが、どういう職業についているにしろ、「貧乏な自分」しか思い浮かばない。私に類まれなる想像力や虚言癖があれば、小説家への道が開けたのかもしれないし、空想だけで見事な紀行文が書けたかもしれないのだが、残念ながら私はウソがつけないタチだ。
 散歩をしながら、乗り物に乗っていて、路上でコーヒーを飲みつつ人々を眺めていて思ったことの、ほんのわずかを旅日記に書き、記憶にとどめる。そういう時間もまた、ひとり旅の楽しいひとときである。いままで何冊か旅行記を書いているが、旅日記を見ながら書いたことはほとんどない。記憶に残る出会いを記憶のままに書いたに過ぎない。すぐれた記憶力があるから思い出せたのではなく、今までの旅を、旅の間にいつも反芻(はんすう)しているからだ。つまり、私は、私の旅の語り部であると同時に、聞き手でもあり、聞き手である私が文章にしてきたのである。つまり、聞き書きである。
 旅日記は書くが、紀行文を書くときはその日記を見返さない。ノートを見なければ書けないようなことは、忘れてもいいことだ。書く必要のないことだ。もちろん、読者にとって読む価値のあることかどうかは、また別の話ではあるのだが。