732話 1967年のヨーロッパ旅行 その3


 1967年発行のブルーガイド『ヨーロッパ一周の旅』に、当時のジャルパックのヨーロッパ旅行が紹介されている。その内容をちょっと書き出してみる。
 ヨーロッパコース 18日間 56万9000円
1日目 日航機にて羽田空港発。日付変更線を通過して一路ヨーロッパへ。
2日目 ハンブルグに寄港。午前ベルリンに到着後休養。
3日目 東西ベルリンの観光。ウインター・リンデン通り、カールマルクス大通り、ウィルヘルム1世記念教会、ハンザ地区国際会議場など見学したあとベルリンを出発。フランクフルトへ到着。同地泊。
4日目 遊覧船でライン川めぐり、夕刻ロンドンへ向けて出発。ロンドン泊。(以下略)
 前回紹介したひと月ほどのヨーロッパ旅行よりは短いものの、18日間は現在の感覚では長い。なぜ長いかと言えば、「一世一代の海外旅行で大奮発」ということと、ツアー参加者が「仕事などしなくてもいい恵まれた生活環境」の人たちだからだろう。功成り名を遂げて悠々自適というイメージだ。このツアー代金は、そもそもサラリーマンが支払えるような金額ではないのだから、勤め人用に、短い日程のツアーを用意する必要がないのだ。この当時、57万円あれば、東京郊外の「不便な場所でしかも狭ければ」という条件はつくが、宅地が買えた。このツアー代金は、そういう金額である。
 ツアーの4日目までの日程を紹介したのは、ドイツに重点を置いたツアーだと気がついたからだ。ロンドンのあと、パリやローマなどに寄るが、ドイツ滞在がもっとも長い。ということは、客はドイツの旅に大いなる期待をしているということだ。「やっぱりな」と思った。ツアー参加者たちは、ドイツの文学や音楽や歴史や思想・哲学などを青春時代に浴びて、いわゆる旧制高校的教養を身にまとった人たちだ。ドイツ語を徹底的に仕込まれ、しゃべれなくても、けっこう読める世代。酔うと、ドイツ歌曲を歌いだすような人たちだ。岩波文庫をよく読んだ世代だ。ヘッセ、シュトルム、カロッサ、リルケトーマス・マンゲーテショーペンハウエルショーペンハウアー)、カント、そして「アルト・ハイデルベルグ」やハイネの「ローレライ」など、旧制高校卒業生の心に残るキーワードをあげていけばきりがないほど、ドイツ文化が姿を見せる。その世代にとってのドイツ旅行というのは、青春と再会するひとときなのである。別の言い方をすれば、この時代のヨーロッパ旅行というものは、まだ男が主役だったということで、旅行費用が安くなり海外旅行が大衆化していくと、海外旅行の主役が「女と若者」に変わっていく。1967年ごろといえば、リュックを背負った日本人がシベリア鉄道でヨーロッパにちらほらとやって来る時代なのだが、そういう若者を高校や大学で教育したのも旧制高校世代で、その影響でこの時代の若者は「荒野」ではなく、実は「教養の故郷」ヨーロッパをめざしたのである(あえて蛇足の説明をしておくと、五木寛之は『青年は荒野をめざす』を書いたが、当時の若者がめざしたのは西洋だったという意味だ)。
 ツアー参加者の食事事情がわからないが、行程中に1度は日本料理店には行っているはずだ。このガイドブックの、「レストラン・食事について」の項からちょっと引用する。
「旅程が長く日本料理(米の飯)が食べたくなったら、日本料理店のあるところ(ローマ、パリ、ベルリン、コペンハーゲン)以外の地では中華料理がかならずあるから、ある程度満足することはできる。なお、ホテルでは、熱湯が出るからインスタント味噌汁をもっていくのも方法であろう。ラーメンの方は無理」
 「ラーメンの方は無理」というのは、うまいラーメンができるほどの熱湯は蛇口から出ないということだろうか。外国で、お茶、インスタントの味噌汁やラーメンを作りたいという人は、電気湯沸かし器を持って行ったことだろう。当時のヨーロッパには日本料理店は4都市にしかなかったというのは、その程度の需要しかなかったということだろう。ローマ、パリ、ベルリンのほか、もう1都市はロンドンではなくコペンハーゲンというのが気になって、コペンハーゲンのその店を調べてみた。すると意外なことがわかった。コペンハーゲンの「東京」という店はチェーン店で、ローマ、パリ、ベルリンに店舗があることがわかった。本店がどこなのかは、わからない。パリには、「東京」のほか、「たからや」と「京都」があるが、全ヨーロッパで6軒ある日本料理店のうち4軒が「東京」だから、詳しく調べてみたくなる。コペンハーゲンの「東京」は現在も営業中だと確認できたが、ほかの店は確認できなかった。パリの「たからや」というのは、正確には「たから」で、現役で営業中。1958年の開店だという。この日本料理店「東京」の栄枯盛衰を調べていくと、「ヨーロッパにおける日本料理店」という文化史の研究になりそうだ。
 このように、旅行ガイドを1行1行精読していくと、知りたいことがいくらでも出てくる。残念ながら、私はヨーロッパに深い知識や興味がないから、私が解明できることは多くない。ヨーロッパの旅行事情に詳しい人なら、きっと興味深い話題をいくらでも見つけ出すことだろう。この雑語林のスペイン編で、「バルセロナが観光地になるのは新しいことだ」という趣旨のことを書いたとおり、このガイドブックでもバルセロナに関して1行の記述もない。観光地の移り変わりというのも、調べるといろいろ興味深い事実がでてくる。ローマのスペイン広場について、イギリスと日本でのイメージをガイドブックなどから探る「スペイン広場」(横溝史子)という論文もある。なかなかに、おもしろい。
 http://www.ffl.kanagawa-u.ac.jp/graduate/ronsyu/img/vol_19/vol19_01.pdf
 日本人のヨーロッパ旅行と長年かかわっている旅行関係者なら、ガイドブックをもとにして、実に興味深い今昔物語が書けるだろうが、そういう本はあるのだろうか。