736話 机に積んだままの本の話をちょっと その2


 韓国関連の本を少し


 インターネット古書店で見つけた本だから、内容のレベルはまったくわからなかったが、版元がコモンズなので、それほどひどい物じゃないだろうと想像して注文した。『韓式B級グルメ大全』(佐藤行衛、コモンズ、2013)は、韓国在住ミュージシャン&フードライターが書いた本で、予想していたよりも出来はいい。外国人観光客が良く食べる料理だけを紹介したものではなく、「近所で働いている人がいつも食べているおかず」をとりあげている。小さな写真とイラストで構成された、よくある食べ物ガイドと比べると、情報量は100倍ある。こういう本を読むと、どうしても性差別者となって、「女が書いた本はいただけない」といいたくなる。男が書いたものがすべていいわけではもちろんないし、女の書き手すべてダメというわけでもないが、女が書いた食文化本の歩留まりが悪すぎる。
 次の本も女が書いた本だが、この人の本は「ダメだ」とわかっている1冊を除いて、すべて読んでいる。『釜山の人情食堂』(鄭銀淑双葉文庫、2015)は、韓国人ライターが日本語で書いた本だ。彼女の最高傑作は『マッコルリの旅』(東洋経済新報社、2007)だが、最近はガイドでないと売れないという現実を踏まえてのことだろうが、内容が薄い。ただし、私が「濃く深い内容」だと判定するような本が売れるわけもなく、商売上、ガイド志向なのはいたしかたない。
 この文庫の仕掛けは、大ヒット映画「国際市場で逢いましょう」や「チング」など、釜山を舞台にした映画と、釜山という街と、そこの食べ物を折り合わせ、北からの避難民である自分の親と重ね合わせて書く。こういう構成は、日本人ライターにはできない。この本で紹介している韓国映画はほとんど見ているが、とうぜんすべてのシーンの記憶があるわけではないので、もう一度見直したくなった。この本を読んでいるうちに、「船で釜山に行くのも悪くはないな」などと思い、大阪・釜山の船賃を調べ、「航空運賃の数倍だなあ」などと、空想の旅を楽しんだ。表面上はすらすら読める文章なのだが、映画や食べ物や現代史など、さまざまな雑学がないと、「ああ、そうそう」とより深い理解はできないので、中級ガイドになるだろう。釜山旅行の副読本としても、なかなかの出来だと思う。
 次の2冊も、韓国人が日本語で書いた本だ。『韓国人が知日家になるとき』(金昌國、平凡社、2000年)は、1933年生まれの著者が、日本時代からのちに教師になるまでの日本との関係史だ。そして、著者であるこの元日本人の少年時代の物語を本にしたのが、『ボクは京城師範附属第二国民学校』(金昌國、朝日選書、2008)だ。1933年生まれのこの朝鮮人は、小学校に入学した時には、すでに「朝鮮語」の授業は廃止され、日本語だけになっていた。「小学校」から「国民学校」と改称されて、朝鮮語や英語の本を持っていることも禁止された。国民学校6年生で、終戦。日本の支配を離れた中学生になって、初めてハングルを学ぶ。読書が大好きだったために、手に入る日本語の本を片っ端から読んでいたせいで、学歴的には「小学校6年生の日本語」なのだが、のちにきちんとした日本語の文章が書けるようになっていた。
 この本は、日本人への恨みの本ではなく、「あの時代」の小学生の生活と、その後の人生の話だ。台湾では、日本時代が終わってすぐに1947年のいわゆる「228事件」が起こり、国民党政府の支配が本格的に始まるのだが、朝鮮では朝鮮戦争の混乱と分断があり、そういう歴史の波にもまれ、流されていった人々の物語が描かれている。国民学校時代の級長、日本名成田君一家のその後の人生、とくに彼の妹の結婚相手が、まあ、なんとと驚く人物なのだが、ネタバレになるので、ここでは書かない。
 戦後すぐの、中学校、高等学校の教師がひどかったという話もでてくる。のちに、その時代背景がわかったと書く。日本人教師が帰国したあと、そのあとを継ぐ教師がいなかった。日本は、朝鮮人に高等教育を与えなかったので、中等・高等教育をする教師がいなかった。代わりに教師にさせられたのは、虚無の時間を過ごしている日本留学から帰国した若者たちだった。そういう教師たちの、その後の物語も描かれている。というわけで、この著者の本を1冊というなら、『ボクら・・・・』の方をお勧めする。
 『韓国人が知日家になるとき』は、『ボクら・・・』と3割くらいは重複するので、買う価値はあまりないが、おもしろい部分もある。私の関心分野である海外旅行史の話だ。日本で海外旅行が自由化されたのは、1964年だ。自由化というのは、旅行の目的が観光であれ何であれ一切関係なく、自由に外国に出かけられるという意味だ。韓国では、ソウル・オリンピックの翌年の1989年に自由化された。著者は、自由化前の1970年に日本に行った。航空会社に勤めている弟が、「在日韓国人に招待された」という形式にしてくれて、大阪万博に行くという名目で初めての海外旅行が実現した。その部分を引用する。1970年、著者はソウルで中学と高校の社会科教師をしていた。
 「私の日本行きが決定すると、ちょうど転勤で校監(教頭)として赴任したばかりのわが職場は大騒ぎになった。夏休み中だったので全職員は非常招集され、臨時職員会議が開かれて、私の歓送会が行われた。そもそもエキスポ70に参加する者には30日間のビザが発給されるのだが、私の出発日が8月17日と通告されたため、夏休みが終わる8月末までわずか13日間しか日本にいられないことになったのを、校長が9月1日から休暇をとってくれ、20日間日本にいられることにしてくれた。あちこちの親戚からも招待され、歓送会が開かれた。出発当日には約30名の者が金浦空港に送りに来た」
 日本でも、1960年代の地方公務員なら、こういうお騒ぎだっただろう。