755話 インドシナ・思いつき散歩  第4回


 ホテルの夜


 散歩をしていて商店のなかをちょっと覗いたら、テレビが見えた。画像がえらくきれいだ。DVDかと思ったが、テレビ放送だ。「もしかして・・」と調べてみれば、やはりタイでも2014年から地上デジタル放送が始まっていたのだ。3年前に泊まったホテルではロビーに大きな薄型テレビがあったが、画質は悪く、アナログ放送なんだなあと思ったのだが、タイでもついにデジタル放送が始まったのだ。
 ただし、私にはほとんど関係のない世界の出来事だった。タイで泊まったホテルのテレビは、まだアナログ放送のままで、しかも画質がとんでもなくひどい。おそらく、おんぼろテレビと高層ビルのせいだろう。そして、タイ人の多くは画質のひどさをあまり気にしない。室内アンテナを使う人も少なくない。そういう事情だから、ホテルのテレビはラジオとして使っていた。
 日本でも同じだが、デジタル化によってチャンネル数が増えても、それに見合う番組が作れないので、つまらない放送が続いている。ただでさえ、軍の独裁政権下の、政府や警察などの発表ニュースと、軍事政権バンザイ番組と通販番組だから、見たくなる番組などないのだが、ひとつだけ、ラジオに使える番組があった。「プルーンTV」というもので、プルーンは「熱中する、夢中になる」といった意味だ。タイの歌謡曲ルークトゥン」と呼ばれるジャンルの音楽を流す番組で、内容は古い歌はカラオケ映像、比較的新しい歌はPV(プロモーション・ビデオ)を流すだけだ。カラオケ映像は市販の「メーマイ・プレーン・タイ」というナツメロ販売会社が作ったDVDを流しているだけなのだが、まだ生きている長老格の歌手は、口パクで登場するから、ちょっと楽しみではある。CMは当然、健康食品であり、CM出演者も超ベテラン歌手たちだ。懐かしい歌手たちの、現在の姿が見られる。
 旅の後半の話になるが、タイの北の街、メコンの岸の街ナコンパノムでの一夜。メコン(コン川)という川の名についてはいずれ詳しく書くが、その川の街に今回また来た。ホテルの部屋にテレビはあったが、とても見られる画質ではないし、音声も出ない。夕方、食事に出るときに、カウンターの女の子(20前後くらいだから、女の子と呼びたい気分だ)に、部屋のカギを見せて、言ってみた。
 「ねえ、この部屋のテレビ、映らないのを知ってる?」
 「はい、知っています」
 彼女はにっこり笑って言った。満面の笑み。純真無垢の笑顔で答えられると、何の反論もできない。こういうときの「まあ、しょうがないか」という感情を、タイ語では「マイペンライ」という。テレビが見られず、部屋は暗く本が読めない。長い夜をどう過ごそうかと考えて、「あれだ」と思いついた。映画が見られない機内で楽しく過ごすために、ウォークマンに落語を入れている。ここで落語も悪くない。バッグからウォークマンを取り出したら、電池があまりなかった。たっぷり充電してきたはずなのだが、放電してしまったのか、それとも充電を忘れたのか。ああ、充電用のプラグも持ってくるのを忘れている。暗い街で、ほぼ唯一明かりをつけているセブン・イレブンにすぐさま行って、使えるかどうかわからないが、とにかくプラグを買ってきた。
 買ってきたプラグで、コンセントとウォークマンをつなぎ、充電しながら、志ん生の「品川心中」と円生の「梅若禮三郎」を聞き、そのあと気分を変えて、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)の「Blues on Bach」(ブルース風バッハ)を全曲聞いた。
 ときどき通り過ぎる車の音しかしない小さな町で、こういう夜を過ごすのも悪くない。