763話 インドシナ・思いつき散歩  第12回


 ラオカイ


 サパからどうやってハノイに戻るかは、とりあえず中国との国境の街ラオカイに行ってから考えようと思った。いちばん簡単で安い方法は、来た時と同じようにサパからバスでハノイに直行することだが、それはいちばんつまらない方法でもある。最終的に、どういう移動方法にしたのかという話は、次回に書く。
 サパからラオカイ行きのバスは、路線バスのバス停のようなところから出るバスなのだが、驚いたことに時刻表が壁に貼ってある。ほぼ1時間おきに出るらしい。山道を40キロ下るだけだから、バスは快適に走り、終点のラオカイ駅に着いた。
 ラオカイ駅から歩いて30分足らずで、中国との国境に出た。ホン河の支流ナムティー河の向こうは高層ビルが並ぶ中国で、こちら側は低層の店舗併用住宅がちらほらとあるベトナムだ。中国を目にするのは、いつ以来だろうか。20年ほど前にマカオから中国を見た。ビルが遮って、何も見えなかった。昔は農村だった。香港の落馬州(ラク・マーチャウ)から初めて中国を見たのは1973年で、水田地帯が見えた。それから二十数年後に再訪したら、高層ビルの森になっていた。多分、これからも中国に行くことはないだろう。中国に行きたいという情熱が、今まで一度も湧いてきたことがないのだ。その理由は長くなるので今は書かない。
 国境付近を散歩していたら、音楽が聞こえてきた。木で囲まれたあたりから聞こえてくる。寺か。階段に「國母禮祠」と書いた額がかかっている。中に入ると、寺院のような建物があり、ベトナム語で”Den Mau”(発音記号省略)とある。Denあるいは禮祠というのは、歴史上の人物を祭る寺だという。日本の神社のように、例えば太宰府天満宮菅原道真を祭っているように、歴史上の人物を祭ってあるというのだが、ここでどういう人物を祭っているのかはわからない。
 本堂には10人ほどの人がいて、音楽を演奏しているのは3人、立って体を動かしている人がひとりいる。私は宗教に対する興味と知識が乏しいので、この人物がシャーマンなのか、まったくわからない。仏像の前で祈っているような動きの老人に若い女が助手として働いている。
 ベトナム音楽を演奏している3人は、私に背を向けた形で座っているが、大小の太鼓を置いた打楽器奏者と、各種笛やシャーナイというリード楽器を吹く管楽器奏者の姿はよく見えるが、中央に座っている男が演奏している弦楽器が見えない。肩越しに2弦の糸巻きが見えるから、月琴に似たダングエットかもしれない。太鼓に負けない音量を出すために、楽器はアンプに接続され、スピーカーから弦の響きが流れてくる。楽器の性格上、演奏しながら歌えない管楽器奏者を除いたふたりが歌も担当するから、ボーカルマイクが2本用意されている。
 ちょっと覗くだけにしようかと思っていたのだが、この音楽があまりにすばらしく、本堂に足を踏み入れただけでなく、板の間に座り込んでしまった。誰からもケゲンな顔をされないのをいいことに、じっくりと聴くぞと決める。
 私はベトナム音楽の知識はまったくないが、ここで耳にしているのは義太夫のような、長い物語を語る語り物の芸のような気がする。歌い手が時々変わるのは、物語のなかで語る人物が変わるからだろうか。歌い手はときに唸り、追分のように自由に歌い、河内音頭のような快活なリズムをきざみ、打楽器、弦楽器、管楽器そろってフォルテシモになって一気に盛り上がる。タイの民俗音楽では、これほどのフォルテシモはない。そうか、パンソリか。太鼓だけを伴奏にすれば、パンソリの感じもある。変化に富んでいて、じつにおもしろい。こぶしとリズムに身も心も揺さぶられ、癒され、心地いい。
 シャーマンのような人物の助手をしていた女が、手にドン札を持って本堂にいる人の前に立った。キリスト教の教会なら、来た人から寄付金を集めることはある。ベトナムでも、こうして賽銭を集めるのかと思ったら、逆だ。札を渡している。私の前に来た。5,000ドン札を私に差し出した。前の人も受けとったので、私も受け取ったが、どういう種類のカネかわからない。寺に来て、賽銭や拝観料や入場料としてカネを取られたことはあるが、カネをもらったのは初めてだ。
 しばらくしたら、またカネを配り始めた。今度は2000ドンだ。それから20分ほどたって、3度目の支給、今度も2000ドンだった。合計9000ドン(約50円)だ。1時間ほど音楽を楽しんだのだから、本来はいくばくかのカネを払うのが筋なのだろうが、逆にもらってしまった。この国の礼拝・参拝のシステムがわからない。ハノイでは、コーラとクッキーをもらったし。
 充分長居をしてしまった。演奏はまだ続いているが、境内に出た。公園にようになっている境内の北側は川岸で、その向こうは中国だ。境内で、大きな鍋を置いて客待ちしているのは、チェ・ダオフ屋。ダオフは豆腐のことで、お菓子として食べるので「チェ」という語がつく。おぼろ豆腐を碗によそい、シロップとかち割り氷を入れる。低い椅子に腰を下ろし、大きな傘の下で、ほんのり甘いチェ・ダオフを食べる。1万ドン。ラオカイで得たカネは、ちょっと利子をつけてラオカイで使った。
 境内を出るとき、タイ人の団体とすれ違った。こんなところにも来ているのかと驚いたが、観光客とは思えない服装だった。