773話 インドシナ・思いつき散歩  第22回


 ハノイ、散歩の街

 ここまで、ハノイに関する長い文章を書いていながら、ハノイの魅力をほとんど書いてこなかったのは意識してのことだ。私がおもしろいと思う感覚が、読者には多分わかってもらえないだろうという予感があって、どうせわかってもらえないのなら、こまごまと街の魅力を語ってもしょうがないかと思っていたからだ。ある街が魅力的かどうかという判断は、ひとそれぞれの好き嫌いや感性の問題だ。私がおもしろいと思う事柄は、どうも世間一般とはずれているようだ。私がおもしろいと思うハノイが、ほかの人にとってもおもしろいとは限らない。ガイドブックで紹介している「見どころ」は、私にはほとんどおもしろくないし、買い物にもグルメにもまったく興味がない。ただふらふらと散歩をして、街や人を眺めているのが楽しいのだ。次のようなハノイを、毎日、ただ散歩していた。
https://www.youtube.com/watch?v=IfDyPM6Vxt8
 私にとって楽しい街とは、歩ける街だ。アジアの街の多くは、のっぺらぼうに広いのだが、ハノイはちょうどいい広さだ。特に旧市街がいい。我が宿から北に歩くと、オートバイ修理屋が軒を並べている通りに出る。油の匂いとエンジン音に包まれ、歩道にタイヤが積んであるのが大通りに面した部分だ。大通りから路地に入ると、生鮮食料品を売る市場になる。地面は水浸しでどろどろだから、気をつけながら歩き、果物や乾物や野菜や調味料などを子細に見ていく。いくつものべトナム菓子を眺め、調理用具を見たりしていれば、小一時間はすぐすぎる。
 市場を抜けて、高架の線路をくぐって、あてもなく歩く。一応地図は持っているが、「見どころ」が書いてある観光地図ではなく、ただの道路地図だから、この先に何があるかまったくわからずに歩いているのだ。予備知識などない。ただ、「何かおもしろそうなものがあるかな」と、きょろきょろと視線を動かしているだけだ。
 しばらく歩いていると、ちょっとしゃれた感じの住宅地に出た。金持ちの家ではなく、昔の中産階級のアパートだろうか。古いが、適度に手入れがされているので、古さが味になっている。すぐ近くの道路はバイクがひしめいているというのに、このあたりの道にはバイクがほとんど入ってこない。商店も事務所もないので、人通りもあまりない。
 ちょっと大きな道路に出ると、角にカフェがあった。ちょっといわくのありそうなインテリアだ。“Classic Motor Coffee”という文字が見えた。店内に赤いハーレーとサイドカー付きの白いバイク(BMW)が置いてある。バイク愛好者のたまり場が夜の姿で、昼間は近所の喫茶店という感じで、おばちゃんたちがコーヒーを飲みながらおしゃべりしている。私もコーヒーを注文した。店内には、ベトナムのオートバイ史がわかる写真とともに、オーナー自慢の写真も飾ってある。コーヒーは、最近の流行なのか、日本の湯飲みに入れてある。取っ手がないから、口までいっぱいコーヒーが入っていると、熱くて持てない。こういう店で、コーヒーが2万5000ドン(130円ほど)というのは安い方だろう。これまたよく見かけるのだが、昔の足踏み式ミシンの足に板を乗せたテーブルにノートを広げ、昨日の日記を書き、ハノイで手に入れたパンフレット類を読み、店内の客の様子を観察し、「さて、このまま北に行くか、それとも・・・」などとこれからの散歩を考えながら地図を読む。
 南に下れば、テレビの旅番組やガイドブックの写真でもおなじみの古い商店街「ハノイ36通り」が広がるのだが、そういう場所はとっくに探検済みなので、その日は南以外の場所に行こうかと考えていたのである。
 観光客が多く来る地区の喫茶店にいたら、観光客観光をする。観光客の服装や動作などなかなかにおもしろいのだ。韓国人だと、1960年代なかば以前の生まれか以後かで、姿がまったく違うのだ。50歳以上だと、おばちゃんはパンチパーマで帽子をかぶっていることも多い、派手なだけで、センスのかけらもない服装の趣味で、大阪のおばちゃんによく似ている。それより若い世代になると、服装の趣味ががらりと変わり、日本人とあまり区別がつかない人も多くなる。20代の男女では、遠くからでは、日本人と韓国人と台湾人の区別はつかないことが多くなる。
 明らかに中国人だなという一団だと、何語をしゃべっているのか気になるのだが、北京語でも広東語でもないと、私の耳ではもう区別できない。客家語や福建語だと、中国語の仲間だろうというくらいしかわからない。
 工事現場観光というのも、私の趣味である。サパでは大理石の切り出し現場に、朝と午後の2回行っていた。崖全体が大理石で、それをノミと削岩機で崩していく。どうやって崩すのかと、職人の腕前を鑑賞するのである。立ったまま30分見ていても、まったく飽きない。陶器で有名なバチャンだが、この地の陶器はつまらなかったので、おそらくは店舗併用住宅になるであろう建物の建設工事をずっと見ていた。とくに変わった建築物ではないのだが、それでもおもしろい。コンクリートミキサーでコンクリートをこねて、それをバケツに入れて、ウインチで2階部分にあげるところだったので、私は現場監督になった気分で作業員の仕事ぶりを見ていた。実際の現場監督は30代の女で、工務店の社長夫人だろうか。肉体労働も率先してやっていた。きびきびした動きが気持ちいい。20前後のころ、私もまたこういう現場の作業員だったので、今どういう工程で、これからどうするのかといった工事の段取りはよくわかる。足場の組み方なども調べたりする。
 私の散歩はこんな感じだ。こういう、なんということもない、ガイドブックでは紹介しょうもない場所でしばらく立ち止まり、あるいは腰かけて、街や人を眺めて楽しんでいる。だから、「ねっ、おもしろいでしょ」とほかの人には言えないのだ。