795話 インドシナ・思いつき散歩  第44回


 母を想う その2


 アジア文庫の大野さんは、なぜ何度もあの本を私に勧めたのだろうか。あの本になぜ感動していたのか。だんだん思い出してきた。大野さんは、私が母の介護をしていることを知っていた。そして、あのころ、大野さんも認知症の母を抱えて苦労していたのだ。ハノイ認知症の母を介護している小松みゆきさんの話は、けっして他人事ではなかったのだ。別府の実家でひとり暮らしをしていた大野さんの母親が認知症になり、近所に住んでいる弟さんが面倒を見ていたのだが、その弟さんが重い病気になり、東京に住む大野さんが母を引き取ることにした。その準備のために、週に1回か2回、東京と大分を往復していたことを思い出した。その後、母親の介護で苦労している話を少ししたことがあったが、今度はその大野さんが重い病気にかかり、あっけなく亡くなった。2010年に大野さんが亡くなってすぐ、奥さんとの思い出話のなかで、こういうエピソードを聞いた。
 「あの人は、出会ったときからずっと、怒ったり、大声を出したりしたことなんか一度もなかったんです。子供をきつくしかったこともなかったんです。じつに、物静かな人でした。でも、お母さんと住み始めて、『この人、こんな大声で怒鳴ることがあるんだ』と驚いたことがありました」
 この時の、認知症の親と住み始めた子どもの感情の揺れが、『越後の・・・』にも出てくる。母親の心はもちろん私にはわからないが、母の認知症が受け入れられない子供の戸惑いは、私にもわかる。私の母の場合は認知症というほどでもなく、通常は「歳相応のもので・・・」と医者がいう程度のボケではあったが、私が日本を離れるために施設にあずけると、とたんに妄想と幻聴の人となってしまった。自宅に戻ればすぐに元に戻るのだが、それでもときどきはコワレた。妄想がいつの間にか事実としてしゃべりだしたり、何度注意しても無視したりという態度に、かつての「しっかりしていた母」の記憶がある子供は、過去と現在のギャップに戸惑い、情けなくなり、ついつい声を荒げてしまうのだ。「なんでわかってくれないの」といういらだちだ。母に大声を出した大野さんも、多分、そういういらだちがあったのだろう。私も母に大声を出したことがあり、それに対して母も応酬して、情けない気持ちになったこともあったのだが、そのうちに、自分が子供のころ母にしてもらったことを思い出し、記憶以前のことはその時代を想像し、それに比べれば、今の私はたいしたことはしていないのだとわかり、「まあ、年寄なんだから」とも思えるようになり、何度も聞く話に、「へー、そうだったの」などと初めて聞くようなふりが平気でできるようになった。そうなれば母も子も毎日を平穏に過ごせるようになった。いつも間にか、母は童女のようにニコニコして、ときに妄想の自伝を語りだす。子供の前では笑うような余裕もなかった母が、ちょっとした冗談でも、「もう、苦しいじゃないの」と、声を出して笑うようになった。母の笑い声を、その時になって始めて聞いた。こんなにもよく笑う母を知らなかった。そういうなごやかなひとときをすごせるまでに、ちょっと時間がかかった。小松さんの場合もそうだったのだが、大野さんはどうだったのか、話を聞かぬ間に亡くなった。大野さんのグチの聞き役になってあげられなかったことが、悔やまれる。
 いつもの私なら、文廟といった名勝には足を踏み入れないのだが、「行ってみようか」と思ったのは、『ベトナムの風に吹かれて』に母子がこの場所を散歩するシーンがあったからだ。文廟だけでなく、ハノイの地図を広げながらこの本を読んだ。
クリスマスイブには、「チャンティ通りからディエンビエンフー通りにかけて、街中の人が暴走族になったかのように、バイクをブカブカふかして走っている」とか、「クァンチュン通りからハイバチュン通りを抜けて家まで元気に歩いた」といった文章から、この母と娘が住んでいるアパートを地図から推察したり、ある日の散歩を地図で追跡しながら、いまはこの世にいないふたりの人、母と大野さんを想った。これが、臨場読書だ。(以下、つづく)