796話 インドシナ・思いつき散歩  第45回


 母を想う その3


 2007年に出た『越後のBaちゃんベトナムへ行く』が角川文庫版として再発売された理由は、日本・ベトナム合作映画の原作になったからであり、書名は映画タイトルに改変された。元の書名がいいとは思わないが、新しいタイトルも当たり前すぎてつまらない。
https://www.youtube.com/watch?v=O8m_cMud6TY
 帰国してから調べてみると、まだ上映している映画館があったので、すぐに見に行った。結論を先に言えば、駄作である。監督(大森一樹)と脚本(北里宇一郎)と何人かのプロデューサーがいじり回して、「なんだ、これ?」という映画を作ってしまった。駄作製造の原因はふたつある。まず、原作にはない役の、奥田瑛二と吉川晃司が余計である。このふたりの役がなかったら、どれだけすっきりしたことか。つまり、脚色の敗北である。日本のベトナム反戦運動を取り上げるために昔の恋人を匂わす旧友の役で小泉(奥田瑛二)を突然ハノイに登場させ、その旧友をベトナムから日本に帰国させるために吉川晃司(本人役)を出すという奇策が大失敗している。小泉というつまらない虚構を作り出したために、その虚構を収めるために吉川を本人役でハノイに登場させてしまった。「砂上に屋上屋」である。徒労、カネの無駄遣いである。
 もうひとつの敗北の原因は、合作である。文化庁の「国際共同製作映画の支援」を受けている映画だから、無理にでもベトナム文化の広報を組み合わせなければいけない状況になっている。これが余計だ。私はベトナムの歌舞チェオは好きだが、この映画でとってつけたように登場するのは気にいらない。合作であるから、ベトナム側に気に入られるように作ろうとして、かえって焦点ぼけになってしまった。別の言い方をすれば、制作側に力量がなかったということだ。主人公が昔、小泉とともにベトナム反戦運動をしていたという設定作ったのも、合作ゆえの配慮だったのかもしれない。
 ハノイを毎日歩いたおかげで、ロケ地はほとんどわかる。だから残念なのだが、もっとカメラを引いて、風景を映し込めば、ハノイの街がわかり、魅力が伝わり、無理のない観光映画にもできたと思うのだが、広角、遠景のシーンが少ない。つまり、臨場感が乏しいのだ。この旅行コラムの22回で、ハノイを舞台にした映画を作ったらという話を書いた。そのときはまだ映画「ベトナムの風に吹かれて」を見ていない。この映画を見ながら「おしいなあ。ちゃんときれいに撮影すれば、もっときれいなハノイが見られて、そのハノイで暮らす母娘の物語に厚みが出るのに・・・」と思ったものだ。活字で読むハノイの方が、映画のハノイよりも臨場感があるのだ。
 ハノイの紹介などどうでもいい、重要なのは母と娘とご近所さんだというなら、もちろんそれはそれでいいのだが、それならばもっと原作通りにていねいに描いていけばいい。遠景のハノイも映し出すということは、物語の舞台となるハノイの臨場感なのだ。カメラが役者に寄って撮影するなら、日本で撮影しても問題がなくなる。原作の初めのほうに出てくる、母子ふたりのハノイ散歩のシーンが5分でもあれば、異国で暮らす母娘のようすがもっとよくわかったはずだ。それはそれとして、画質がひどく荒いのはどうしたわけだろう。昔でいえば、16ミリフィルムを拡大して上映したような荒さで、デジタル時代の映画とは思えないのだが、映画の素人だから、その理由は分からない。
 私の本当の気持ちを言えば、「残念」なのである。せっかくいい原作がありながら、見ごたえのある映画が作れなかったことが残念でならない。スタッフが悪く、主演の松坂慶子もしっくりこない。どんな役でも「松坂慶子でございます」だ。ミスキャストだ。客を呼べるビッグネームということでキャスティングしたのだろうが、それも失敗した。原作では、母がしゃべる新潟のことばが実に魅力的なのだが、映画ではそれほど生かされていない。ただし、母役の草村礼子の演技はそれほど悪くはない。
 このように、ダメなところを書き出せばいくらでも出てくる。やはり、ヒモ付き映画は良くない。