801話 インドシナ・思いつき散歩  第50回


 山岳民族博物館


 寒くて目が覚めた。昨夜、窓を開けたまま寝たのが失敗だった。カーテンを開けて外を見ると、霧雨で街がかすんでいた。11月に入っているのに、雨期がまだ終わらない。高原でもないのに、半袖シャツでは寒い。ジャンパーを着て、小糠雨降る街に出るがまだ寒い。タイでこういう寒い日を過ごすと、「タイの季節は四季じゃなくて、三季。hot , hotter , hottestですよ、ガハハ」と得意そうに言うバカオヤジが頭に浮かび、うんざりする。
 宿の近くで建築中の建物は、タイの寺院風建築のキリスト教教会だ。すぐ近くに仏教寺院もあるので、屋根に十字架があるかどうかを認識しないと、遠目には区別が付きにくい。仏教寺院の奥に、イスラム教のモスクがあり、イスラムレストランがある。およそ100メートル四方くらいの場所に、3つの宗教施設が集まっている。
 チェンライで行きたいと思っていたのが、山岳民族博物館だ。前回この街に来た時には、まだなかったはずだ。小さなビルの中にある小さな博物館で、NPO団体が運営している啓蒙的な展示だから、それほどおもしろいわけではない。通常なら10分で出てしまう内容なのだが、外は雨。そもそもあまりおもしろそうではない街を、雨の中を傘をさして散歩するのは楽しそうではないので、博物館で雨宿りをして、時間つぶしをしよう。少数民族の生活ぶりを見せてくれるビデオはちょっとおもしろかった。
 タイの麻薬史の写真展示があった。反麻薬キャンペーンの一環だろう。しかし、重要な説明がないのが気になったので、館長に説明してもらうことにした。タイの貿易資料を読んでいて気がついたことだが、かつてアヘンは合法的な存在で、アヘン貿易の利権は王室が握っていた。つまり、王室の財政を支えていた柱のひとつがアヘンだったわけだ。しかも、タイでアヘンが非合法になるのは、それほど古いことではなかったはずだが、さて、いつだったか。
 「1959年です。それまでは、タイのどこででも、自由にアヘンが買えました」と館長が説明してくれた。禁止されてすぐに市場から姿を消すという国ではないので、おそらく1960年代に入っても、なかば公然とかなりの売買があったことだろう。ちなみに、日本でヒロポンアンフェタミン覚せい剤)の所持・使用が禁止されたのは1951年のことで、それまでは薬局なので自由に販売されていた。
 そうだ、思い出した。かつて、ラオスやタイの上空を飛んでいたエア・アメリカという航空会社があった。資金を出していたのは、CIA。ジョージ・H・ブッシュ(パパ・ブッシュ)が社長をやっていた時期もあり、彼はCIA長官だったこともある。この航空会社が運んでいたのは、武器や麻薬で、小説や映画にもなっている。アメリカと麻薬の歴史を探ると、インドシナアメリカの権力者のインチキさ加減がよくわかる。
 「竹の利用」という展示コーナーに、下駄を見つけた。竹の下駄だ。ハノイ民族学博物館でも竹の下駄を見たので、インドシナ山岳部に住む少数民族の中に、下駄を使っている人たちがいることがわかる。100年ほど前のマレーシアの写真を見ていたら、木に革ベルトをつけた「つっかけ」を売っている行商人の写真がでてきた。いわゆる「便所サンダル」と呼んでいるサンダルだ。展示品は、ベルトをはったそういうサンダルではなく、鼻緒がついた下駄だ。日本以外にも、鼻緒がついた履物があったことはわかっている。
 かつて、漢人の世界にも下駄があった。『はきもの』(潮田鉄雄法政大学出版局、1973)や『下駄』(秋田裕毅法政大学出版局、2002)を読んで、だんぼで使う田下駄があったことは知っていたが、「下駄は日本の物」という意識が強すぎるのか、日本以外の土地の下駄に関する記述はほとんどない。その昔、『ゴム草履の世界史』というような本を書きたくて、ゴム草履やビーチサンダルの歴史を調べていたことがある。資料を探して読み、広島・福山市日本はきもの博物館にも行ったが、この種のはきものに関する資料がないことがわかった。靴以外の履物の文化史の本は、あまりに大変な作業だとわかり、三輪車の研究に変更した。
 時は流れ、インターネット時代に入り、「下駄の世界」の情報がほんの少し広がった。中国世界(漢人)の下駄は、朱新林氏の次の記述がある。
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1408.html
 インドシナ少数民族の下駄については、鳥越憲三郎氏のエッセイ「下駄とワラジのルーツ」。アカ族やタイ族の竹下駄が、私が見たものとよく似ている。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/tamotsu2/danwa.htm
 論文をていねいに探せば、下駄のアジア史の資料がもっと見つかるかもしれない。