807話 インドシナ・思いつき散歩  第56回


 Joma


 船着き場からルアンパバンの旧市街に行くトゥクトゥクの座席で、私はもしかしてニタニタと笑っていたかもしれない。船を下りるちょっと前、「丹波哲郎40歳」が突然奇妙なことを言い出したからだ。
 「エジプトでは、人は何語をしゃべっているの?」
 「アラビア語を話す人が多いけど、なぜエジプトのことが気になるの?」
 「だって、エジプト人でしょ?」
 「ボクが、エジプト人? ええ、なんで?」
 「だって、そう言ったじゃない」
 「言わないよ。日本人だって何度も言ったでしょ」
 「日本に住んでいると言ったし、日本語もしゃべるといったけど、『自分はエジプト人だ』って言いましたよ」
 うーんと考えて、その謎が解けた。
「コン・イープン」(日本人)と言ったのを、「コン・イープ」(エジプト人)と聞こえたようだ。
 彼が育った村には電気はなかった。だから、ラジオやテレビとは縁のない少年時代だった。ビエンチャンのような都会だと、川を隔てた対岸がタイだから、テレビもラジオもタイの放送がよく入る。ラオス人もタイの番組に親しんでいるから、自然にタイ語も覚える。もともと似た言語なので、聞く・話すは苦労なくできるようになる。しかし、彼の場合は大人になってから覚えたタイ語だから、あまりうまくない。ラオ語の訛りが消えない。私のタイ語はデタラメもいいところなので、私のカタコトに彼は耐えてくれた。
 ルアンパバンは、たぶん4年ぶりだろうか。いや待てよと、今パスポートで確認したら、前回来たのは2007年12月だった。8年前のことを4年前くらいだと思っているのは老化である(そうでしょ、ご同輩)。この8年で、ルアンパバンはますます観光地化されている。物価もいっそう高くなっている。民家にちょっと手を加えたゲストハウスを見つけて、「いくら」と聞いたら、「1000バーツ」(タイの通貨バーツも使える)だという。バンコクの4階建てホテル(朝食つき)より、ルアンパバンの民宿の方が高いのだ。質を考えると、なお高い。需要が高いままだから、安くする必要がない。宿はまだまだ足りないのだ。
 メインストリートは8年前とは違い、夜店街になっている。中国人、韓国人、日本人、タイ人が肩をぶつけるようにして歩いている。大混雑だ。かつては、ちょっとカネを持った旅行者を相手にするおしゃれなレストラン、女性誌が好きそうなインテリアのレストランはあったが、食堂も屋台もほとんどなかった。今は、屋台、露店、食堂ができている。8年前に、ルアンパバンから帰ったばかりの友人が、「1995年に世界遺産に指定されているから、もうすでに有名観光地だけど、今後はもっと観光地化されるから、行くなら今だと思う。テーマパークだとわかっていて行くなら、失望もしないよ」と言ったとおり、観光客は増え続けている。
 8年前とはいえ、この小さな町を10日ほど散歩したことがあるから、一晩泊まれば充分だ。ルアンパバンで行きたい場所はただ一か所、前回の滞在でも毎日通ったJomaだ。古い館を利用した喫茶店で、その雰囲気、店員の笑顔、コーヒーの味、すべてに渡って文句のない喫茶店だ。8年前、この店で本を読み、日記を書き、通りを眺めて、「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく」る日々を過ごしていた。
 Jomaはまだあるだろうかと思って探すと、以前のまま、同じように店はあり、かつてのように1階で注文して、カネを払い2階に上がる。好きな席に座っていると、2階の席までコーヒーを持って来てくれる。この店の名前の意味がわからない。8年前、帰国してラオ語ができる友人に、「Joma」と発音するラオ語の意味を聞いのだが、「さあ、そういう単語は思いつかないけど・・・」ということだった。そこで今回、テーブルまでコーヒーを持って切れくれた店員に尋ねてみた。
「Jomaっていうのは、この店を作った西洋人の名前です」ということだった。帰国して、この店のことを調べていたら、きちんとした英語のホームページがあることが分かった。Jomaは、この喫茶店を経営している4人の名前、Jonathan , Jocelyn , Michael , Areeratの頭文字からとったことがわかった。創業は1996年だが、この4人が経営するようになったのは1999年だ。
http://www.joma.biz/
 コーヒーがうまい。身にしみる。12000キップ、150円くらいだ。屋台で飯を食っても数万キップするから、ここのコーヒーは割安だ。ベトナムのコーヒーは砂糖や油脂を混ぜて焙煎しているので味がぼやけていて、しかもひどく甘い。そういうまずいコーヒーを飲み続けてきたので、ここのコーヒーのうまさが身にしみる。チェンライにもコーヒー専門店が何軒もできていて、その2店で飲んだが、こんな感動はなかった。「ビエンチャンにも支店があるよねえ」と言うと、「ハノイにも支店がありますよ」と店員が言った。知らなかった。もしハノイ散歩中に見つけていたら、もちろん店に入っただろう。この店のうまいコーヒーは、ベトナム化されているのだろうか。