810話インドシナ・思いつき散歩  第59回


 山坂道をくねくねとビエンチャンへ 前編


 長居は無用のルアンパバン。朝一番のバスでビエンチャンに行こうとキップを買ったのだが出発がちょいと遅れ、やっと出発したら、バスはルアンパバンの郊外で停まってしまった。夜明けとともに起きたというのに、まだルアンパバンだ。休憩には早すぎる。アフリカなどでは、バスが出発してすぐにガソリンスタンドに行って給油することがある。「出発前になぜ給油をしておかないのか」と怒る外国人客がいる。現地の事情を知らないのだ。客から集めたカネで、その日走るのに間に合うギリギリの量のガソリンを入れるのだ。実は、タイの観光バスでもこういうことはある。これが、自動車の自転車操業だ。この日のラオスの場合は、給油ではない。バスを降りると、運転手と助手がタイヤを点検している。パンクならしょうがない。ここは自動車修理工場だ。
 後部左側、ダブルタイヤの外側のタイヤを外すと、内側のタイヤのスチールホイールが割れていた。鉄が粗悪なのか、使用限度を超えたのか。私は運転ができないから、どういう違和感があったのかわからないが、乗客にはわからなかったと思う。こういうオンボロバスの旅は、トラブルが起きても笑って見過ごすしかない。バスの腹に大きく”V I P”と書いているが、通常の英語のVIPとは違う意味の語なのだろう。
 「いつになったら動くんだ!」と怒鳴っている若い旅行者がいた。「イライラしてもしょうがない。予想もつかない出来事には、おもしろがるのが一番さ」と言ったが、何の反応もなかった。その若い旅行者は私のすぐ前の席にいて、異常な動きをしているので気になっていた。若い旅行者はふたり。ひとりは身長190センチ90キロという体で、知性など感じさせない脳味噌筋肉男だ。連れの男は、それよりはやや小柄で、前髪切りそろえ丸メガネでヘラヘラしているので、私はヤマザトと名付けた。このふたりは、手にしたU字形の旅行用枕でガラスに止まった羽ムシを叩き潰している。暇つぶしとはいえ、1時間もムシをたたき続けているのは異常・異様な光景だった。
 険しい急坂の山道を予想していたのだが、それほどの急坂道ではない。しかし、「ラオスはすべて山の中である」という言葉が浮かぶ。平地がほとんどない。田んぼはわずかあるだけで、「焼畑陸稲、雑穀」の土地だとよくわかる。「神はインドシナ半島中央部の豊かな場所と海をタイにやり、残りのおまけの山地をラオスに押しつけた」というフレーズが頭に浮かんだ。
 村を抜ける。垣根にランタナは珍しい。美しい。どうせ停車するなら、こういう村でしばらく停まってくれればいいのにと思うが、まあそう都合良く故障はしないものだ。
 山奥の見晴らしがいい場所でバスが止まった。前に何台も自動車が止まっている。事故か。いつまでたっても動かないので、乗客は降りて気分転換をするしかない。車列の前に進み、作業のようすを見ると、がけ崩れが原因とわかった。右側が切り立った崖で、左側は深い谷になっている。崖はただ土を切り取っただけなので、ちょっと雨が降ると崩れる。どうやら、ここは崖崩れの名所らしい。
「なんで、ちゃんと道路整備しておかないんだよ! まったく」
 脳味噌筋肉男がどなった。
 「まあそうカリカリしなさんな。路上の土砂が片付かないと進めないんだから、この山の風景でものんびり眺めていればいいんだよ。しかたないだろ」
 「Seriously」と脳味噌筋肉男が言った。私の頭では、「マジな話よお」と変換された。
 「ここで時間食って、ビエンチャンに着くのが遅くなって、ホテルの予約が取り消されて、オレの部屋にほかのヤツが泊まることになったらどうしてくれるんだよ。『風景を見ていりゃいい』なんて、冗談じゃねえよ、マジな話」
 脳味噌筋肉男が真正のアホだと思ったから、何も言わなかった。言ってもわからないだろう。短パン・タンクトップ男はバスに戻って行った。
 「今の、聞いた?」
近くにいた別の旅行者に話しかけた。30ちょっと前の小柄な旅行者で、ちょっと訛りのある英語をしゃべる。後から考えると、なんとなくオランダ人のような気がする。さっきの、脳味噌筋肉男とヤマザトは、もしかして除隊直後のイスラエル人かもしれないと思った。もちろん、事実は知らない。
 「ええ」
 「ビエンチャンの宿は予約している?」
 「まさか」
 「だよな」
 旅の話をちょっとした。彼もタイのチェンコーンからルアンパバンに行ったという。
 「1泊2日の船の旅?」
 「いや、スピードボートだから、夕方には着いたよ」
 タイでは「ルア・ハン・ヤーオ」(長尾船)と呼んでいる細長い船が、川面を爆走している姿を何度も見ている。客は数人。全員がヘルメットをかぶって、必死に船にしがみついている。手を離せば、たちまち飛んで行きそうだ。私が乗った船が路線バスとすれば、スピードボートは暴走族に近い。
 「じゃ、フルフェイスのヘルメットをかぶって・・・」
 「いや、それは船頭だけ。僕たちにはなかった。だから、強風を受けて目は開けていられないし、下向いて・・・」
 「それじゃ、楽しくなかった?」
 「いや、楽しかったよ。たっぷり楽しんだ。おもしろかった、笑っちゃうくらい。いい思い出になったよ」
 楽しかった旅の思い出を語った。その話で、こいつとは気が合うと思った。彼が崖を眺めて言った。
 「思うんだけどさ、今、道路に崩れ落ちた土を崖から下に捨てているけど、土をすくうと、上からまた土が崩れ落ちて来るんだよね」
 私も彼と同じことを考えていた。「シジフォス」という語が浮かんだが、彼の知っている言語でそのまま通じるかどうかわからない。通じないと、説明するのが面倒なので、黙っていた。
 さしものシジフォスも、パワーシャベルの馬力で制圧し、我々が立ち止まって1時間ほどで、なんとか1車線分だけ通れるようになった。また、すぐに崖崩れするだろうが、一時しのぎだ。我がバスの運転手は、「去年は、ここで一泊したことがあったなあ」などと言いながら、バスに戻った。