816話インドシナ・思いつき散歩  第65回


 タイ入国 後編


 ほかの国と同じように、タイも出入国事情が厳しくなっている。ビザなし滞在で多くの観光客を呼び込むと同時に、怪しげな長期滞在者を締め出すために、ビザの発給が厳しくなった。
 かつては、ビザなし滞在の日数は2週間程度だったが、ビザは簡単に取れた。その後、ビザなし滞在が、30日になった。万一超過滞在した場合でも、長くなければその場でちょっとした罰金を支払えば、それで済んだ。長期間の超過滞在でも、罰金の上限が決まっていて、払えないほどの金額ではなかった。現在の規則では、超過滞在は、1日につき500バーツの罰金を支払う。90日を超えると、以後1年間の入国禁止になる。罰金を払った場合でも、「次回の入国に問題が生じる可能性がある」とタイ政府は警告をしている。
 私がタイに長期滞在をしていたのは、1980年代末から90年代末の約10年間で、毎年半分はタイを中心に熱帯アジアで過ごし、あとの半分は日本で過ごしていた。その時のビザは、タイの観光ビザだ。東京のタイ大使館に行き、簡単なビザ申請書を書き、パスポートと往復の航空券の予約確認書があれば、翌日にはビザがとれた。これで、2か月間は滞在できた。タイ滞在50日を過ぎることになると、出入国事務所に行って、簡単なビザ延長の手続きをする、これで、あとひと月滞在できる。観光ビザの延長は1回限りだから、滞在90日にならないうちに出国する。近隣諸国のタイ大使館でまた観光ビザを取り、タイに戻る。タイ以外の国で滞在が長くなると、2度目のタイ滞在は短くなる。こうして、毎年、熱帯アジアで半年ほど遊んでいた。
 いくつかの理由があって、タイに長期滞在することをやめたのだが、もし今また同じようにだらだらと滞在しようと考えたら、えらく面倒なことになる。そもそも、観光ビザをとるのは、ほとんど不可能に近い。「観光ビザはないわけではない」というだけのことで、現実的には、ないに等しい。次のような難題を解決しないといけないからだ。
 会社員や学生なら会社や学校が発行する「身元保証書」がいる。無職なら親など保護者の保証書がいる。年金受給者は年金証書のコピー。そして、「銀行の残高証明」や旅行行程表や旅行目的説明文書(観光だろ?)、まるで就労ビザでも申請するような書類の山を築かないと、「たかが観光ビザ」が取れないのだ。腹を立てることが快感という方は、タイ大使館の次の説明をお読みください。インドと違い、ビザなし滞在を認めているところだけが、せめてもの救いだ。
http://www.thaiembassy.jp/rte1/index.php?option=com_content&view=article&id=885:2012-&catid=36:require-document&Itemid=54
 その昔、私がタイあたりをうろついていた時代、エジプトでは田中真知さんが旅行ガイドでがっぽり稼ぎ、優雅に旅をしていた。世界にはまだテロの恐怖はなく、不法滞在者もそれほど多くなく、多くの国ではゆるゆるのビザ事情だった。今はもう、同じようなのんきな滞在はできない。旅行事情という点では、1980年代のインドシナ半島は、ベトナムラオスカンボジアには簡単には行けず、ビルマも旅行制限があった。だから、今回の私の旅のようなことはできなかった。そういう点では旅行事情は良くなったとは言えるのだが、長期滞在が難しくなった。昨今、一か所に腰を落ちつけた滞在記がほとんどなくなったのは、ビザのせいでもあると言えそうだ。過去に出版された異文化エッセイの名作は、金子光晴山口文憲玉村豊男に代表されるような、「怪しく、のんきな滞在者」の手によるものだった。長く滞在すれば、それだけでいい滞在記が書けるわけではないが、駆け足旅行では印象記しか生まれない。