820話 喫茶室のある飛行機を調べていたら、大変なことになった。その1

 この雑語林の728話(2015.8)で、警視総監のアメリカ旅行の話を書いた。その中で、こういう文章を書いた。
 「パン・アメリカン機内で。『退屈しのぎに階下の喫茶室に下りて、コッカ・コーラーをスチュアー・デス嬢に貰って飲んだりした』(原文ママ)。1953年時点のコーラ事情はともかく、飛行機事情に疎い私は、「階下の喫茶室」というのがあったことに驚く。飛行機史の資料は棚にあるのだが、暑いので取り出して調べる気がない」
http://d.hatena.ne.jp/maekawa_kenichi/20150806/1438824329
 このときは文章を書くリズムを壊すので調べ物をしなかったが、その後に「階下の喫茶室」がある航空機について、手元の資料で調べたら、すぐに見つかった。ボーイング377・ストラトクルーザーのことだ。この飛行機は話のネタが豊富な機種だ。爆撃機B29をもとに作った輸送機を改造して旅客機にしたのがこれで、「最後のプロペラ機」と呼ばれているらしい。ラウンジがあるだけでなく、ベッドもあったそうで、マリリン・モンロー来日の時に利用したパン・アメリカン機がこれだった。
https://www.youtube.com/watch?v=aMCP3n16upg
 書棚に何冊もある航空機関連の資料を読んでいるうちに、「気分は飛行機」になり、まだ買っていない本をアマゾンで探して、何冊か注文した。機械としての飛行機には興味はないが、旅行の道具や現代史の資料としては、飛行機や航空会社の話は大いに興味がある。
 注文してすぐに届いたのは、『日本航空一期生』(中丸美繪、白水社、2015)。届いてわかったのだが、著者は元日航社員の作家だ。この本が、おもしろい。知りたいことがいくらでも出て来るから、調べながら読んでいく。1日に数ページしか読めないこともある。楽しい遅読である。
 戦後のGHQの支配下で、日本人は飛行機を飛ばすことが禁止された。羽田空港も、日本のものではなく、GHQの管理下にあった。日本の独立(サンフランシスコ講和条約)を目前にして、1950年1月に日本の運航禁止が解除されるのに備えて、いくつもの航空会社が設立の名乗りを上げた。例えば、日本航空の場合は、1951年に設立準備事務所が開設され、8月に日本航空株式会社が設立された。当然、それ以前に社員募集が始まっている。もしかすると、日本最初のスチュワーデス募集広告となるものが、51年7月に新聞に出た。
 エアーガール募集
 資格 20〜30歳 身長158センチ以上 体重45〜52.5キロまで
 容姿端麗新制高校卒以上英会話可能東京在住の方
 12人募集だったが、15人採用された。給料は別のページにでている。基本給3000円。飛行手当がつくので、当初は8000円くらいから始まり、数か月後には「月2万円くらいの給料がもらえるようになるとのことだった」とあるが、実際にいくらの給料だったかは書いてない。この時代の巡査や小学校教員の初任給が5000円くらいだから、かなりの高給であることは確かだが、遅配もあったらしい。
 日本航空設立に至る過程の出来事も、「ほっほー!」と言いたくなるウラ話が出て来た。
 日本に航空会社を作るかどうかということで、そもそもの議論があった。自前の航空会社を作っても、飛行機は高くて買えない。パイロットも整備士なども人材不足だ。カネと時間の無駄だから、外資に任せようと主張するグループと、自前派の両方が対立した。こういう動きは、戦前の自動車国産派と外資派の対立を思い出させる。
 飛行機会社自前派、つまり日本は自分たちの航空会社を持とうというグループのリーダーは、飛行機と関わる人生を歩んできた航空局の官僚松尾静磨と、政治家藤山愛一郎である。航空会社設立を希望したのは5社あり、藤山が押す「日本航空」に、東急グループが率いる「日本航空輸送」が合併して、「日本航空株式会社」が生まれた。
 パン・アメリカン航空との合弁で「日米航空」設立の運動をしていたグループもあったが失敗し、次は 連合国の航空会社7社(ノースウエスト航空、パン・アメリカン航空、英国海外航空、カナダ太平洋航空、フィリピン航空、そして中華民国の民航空運公司)と組んで、JDAC(Japan Domestic Airline Company)を作ろうとしたグループがあった。その旗振りをやっていたのが白洲次郎だった。その背後を支えたのが小林一三の阪急グループだった。このような戦いの歴史があって、最終的に日本航空が生まれたのである。
 こういう話はまだまだ続く。