822話 喫茶室のある飛行機を調べていたら、大変なことになった。その3


 内容がよくわからないまま注文しておいた『パン・アメリカン航空と日系二世スチュワーデス』(クリスチャン・R・ヤノ、久美薫訳、原書房、2013)も届いた。パンナム本は、すでに『パン・アメリカン航空物語』(帆足孝治、イカロス出版、2010)は読んでいるし、ついでに言えば『日本航空 腐った太陽』(後藤民夫、音羽出版、2008)も読んでいて、どちらも興味深いが、今回はこの2冊には触れない。
 クリスチャン・R・ヤノは、ハワイ大学教授(人類学)で、「ハワイ日系人として、少数人種やジェンダー社会権力構造の問題を探求」と、著者紹介にある。この本は、その著者紹介どおり、パン・アメリカン航空(以下パンナム)の日系スチュワーデスを研究材料にして、民族、エキゾティシズム、ジェンダーで切ったらこうなったという報告だ。だから、飛行機マニアが喜ぶような本ではない。翻訳や構成で気になることはいくつかあるが、ここでは触れない。
 それは1955年のことだった。パンナム日系人をスチュワーデスとして採用した。世界の航空会社では、非白人のスチュワーデスの採用はそれ以前からあったが、短期雇用だったようで、パンナムは長期の雇用(1955〜75年)で、ある程度の人数がいたという特徴があり、当時としては画期的なことだったという。ちなみに、日本では、1931年の東京航空運送社の東京・下田・清水便機内にはスチュワーデスが乗っていたことがわかっている。
 1955年というのは、アメリカ人の「世界旅行」の意識が変わっていく時代だった。映画の世界を覗くと、1954年に「ローマの休日」、1955年にベネチアを舞台にした「旅情」と香港を舞台にした「慕情」、1956年にはタイを舞台にした「王様と私」、1957年には「八十日間世界一周」といった具合に、映画が世界旅行へのあこがれを抱かせ、そそのかし、夢を見させた。アメリカ人と、これらアメリカ映画を見た外国人も、「外国旅行」にあこがれを抱いた。そういう時代に、パンナム日系人スチュワーデスの採用を始めたのである。
 なぜ日系人女性だったのか。理由はいくつかある。
 アメリカは、10年前まで日本と戦争をしていた。日系人はその敵国にルーツを持つが、「優秀」というプラスのイメージもあった。これを著者は、「優等生少数人種」(モデル・マイノリティー)と呼んでいる。優秀な少数民族を採用することは、世界戦略を考えているパンナムにとってプラスになると考えた。だから、プラスのイメージがない黒人はなかなか採用されず、パンナム最初の黒人スチュワーデスは、日系人に遅れること10年、1965年のことだった。
 日系人は白人に準ずる存在だと認められながら、同時に「遠い存在」でもあった「フジヤマ、ゲイシャ」のイメージ、制服を着た芸者という東洋憧憬(オリエンタリズム)の対象でもあった。「ゲイシャ」は、乗客が勝手に抱いたイメージではない。パンナムの最高責任者ナジーブ・ハラビーは、「スチュワーデスはゲイシャを見習え」と訓示している。したがって、日系人スチュワーデスは、蝶々夫人を彷彿させる最高のゲイシャを期待されて採用されたのである。パンナムのこの意図・思惑・下心が、乗客にぴったりと伝わった。 
 「優秀な少数民族ゲイシャ」というこの2点が、パンナム日系人を採用した理由である。仕事場は、ハワイ路線。1950年代は、プロペラ機からジェット機へと変わる時代だった。アメリカでは外国旅行のブームはふつふつと湧きだしてきた。ジェット機によって移動時間が短縮し、航空運賃にエコミークラスが導入され、映画やマスコミが「外国旅行」へ誘う。ハワイ観光の時代である。
 外国旅行は異国に向かう旅なのだが、機内に異国を持ち込むこともあった。1955年のノースウエスト航空太平洋線では、あのボーイング377の機内下層の空間に、アジア趣味の内装をほどこした「フジヤマルーム」を作った。ちょっと前に書いた、2階建てのあの航空機だ。ノースウエストは内装で、パンナムはスチュワーデスで、機内で東洋趣味を演出していた。1950年代は、現在と違って、日本人客を意識して日系人スチュワーデスを採用するという時代ではまだない。
 長くなった。この先は、次回に。