823話 喫茶室のある飛行機を調べていたら、大変なことになった。その4


 1964年4月、日本は海外旅行を自由化した。それに合わせて、パンナムは日本人のスチュワーデスを7名採用した。ほかの航空会社でも、日本人を採用した。雑誌IFE」アジア版(1966年5月1日号)の特集は、「A Japanese in every jet」、つまり日本人スチュワーデスはどこの航空会社でも乗務しているという人気ぶりを特集している。本文は、歯が浮くような、日本人スチュワーデス絶賛集だ。「我慢強い」、「控えめ」、「天性の優雅さ」とほめたたえているが、日本人採用にも裏があり、人件費を安くする方法のひとつでもあった。1960年代は、日本人は安い人材だったのだ。その点、パンナム労働組合との取り決めがあり、日本人も他の社員と同じ給料が支払われたし、ホノルルでの居住も許可された。
 パンナムの日系・日本人スチュワーデスの思い出話を拾う。
 パンナムのスチュワーデスの間でも民族差別があった。日系人・日本人は、ほかのスタッフから相手にされず、交流はなかったという思い出話を語る元スチュワーデスもいる。しかし、同時に黒人スチュワーデスへの差別的態度もあった。黒人の採用が決まったときのスチュワーデス全員の反応は、「黒人の娘と同室になるの? 黒んぼと」だったと、日系の元スチュワーデスは証言している。
 1960年代に入ると、日本人客が増えていった。乗客が日系スチュワーデスに対して高圧的で、下品な態度をとることは、白人客も日本人客も変わりはなかったが、日本人客の態度は奇異なものだった。
 「日本の方への接待は少々やっかいでした。(略)男の方が、両手の先で叩いてぱんぱんと音を鳴らすの。最初は不愉快でした。ひとを呼び寄せるときの作法ね」
 「日本の乗客は、男の人ですが、スチュワーデスを見下して『あれやってくれ!』ってうるさいの」
 「ブドウを剝けっていわれたわ。日本のゲイシャのイメージで日系人スチュワーデスを眺めてたのね」
 ゲイシャ扱いするのは日本人客だけではなかったが、日本人客には次の2点で特別な存在だった。
 ひとつ目は、日系に強く金髪に弱いという態度だ。日本人客が、日系スチュワーデスに対して不遜な態度をとったり、無理難題を押し付けたり、文句を言ったりしていると、パーサーが「金髪青い目」のスチュワーデスをその場に行かせる。すると、日本人客の態度が急に変わり、おとなしくなる。言うことを聞くようになる。
 もう1点は、セクシャル・ハラスメントだった。
 「日本人男性は白人男性よりもセクシャル・ハラスメントにおよぶ傾向がありました。とりわけ日系スチュワーデスが対象になりました。お尻に触るのよ。あれはほんとうに嫌だったわ。大阪便だともっと多かったわ。日本の年配のひとに多いの。東京の方は多少ましなんだけど」
 1955年に日系スチュワーデスが誕生してから時間が流れ、中国人やシンガポール人やフィリピン人のスチュワーデスが生まれてからも、彼女らはまとめて「ニセイ」(二世)と呼ばれていた。ハワイでは、大戦中に大活躍した日系アメリカ人兵士の尊称「ニセイ」をあえて踏襲した。ハワイ観光のPRは、このニセイのスチュワーデスとフラガールが重要な役割を演じてきた。「スチュワーデスとフラガール――観光客を呼ぶという同じ目的を担いながらおよそ対照的な衣装だ。ひとりは文明社会への同化を果たした証として軍服風のすっきりした制服を慎ましく身につけている。もうひとりは熱帯のエキゾチックなフラガール姿で腰をくねらせるのだ」と著者は書いている。日系スチュワーデスという存在は、ハワイを運航の基地にしていたことで成り立ったことがよくわかる。ハワイと日本が合体した日系人のエキゾティシズムが、パンナムの日系スチュワーデスである。