834話 神保町で火野葦平に出会う  その2


 なぜか、アジアの棚に紛れ込んでいた本の背に、『アメリカ探検記』という文字が見えた。函入りの古そうな本だ。「アメリカ」にも「探検」にも興味はないし、著者名を確かめたら、余計に事情が呑み込めなかった。著者が火野葦平だったからだ。墓石が並ぶ墓地の向こうに摩天楼が見える白黒の版画で包まれた函から本を取り出した。立派な装幀だ。ページを開くと、「装幀 関野準一郎」とある。あとで調べて見れば有名な画家らしく、この本の函に使った版画は「墓とニューヨーク」(1959)という作品で、なんとヤフオクで売りに出ていた。23万円だから、それほど高くない。
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b177158819
 奥付けを見る。『アメリカ探検記』著者火野葦平、雪華社、昭和34年12月5日初版 昭和35年1月10日再版 定価370円
 定価がわかると、当時の物価を調べたくなるのが、私のタチである。昭和34年、すなわち1959年当時、東京のたいめい軒のカレーライスは110円。封切映画館入場料200円。巡査の初任給は1万円ちょっと。ひと月に25日働いたとすると、1日あたり400円の給料という計算になる。それが、当時の370円の価値だ。
 この奥付けのページで気になるのは、次のような英語の表示があることだ。
 ■AN EXPEDITION TO AMERICA■ By ASHIHEI HINO Ⓒ1959 Published by SEKKASHA Printed in Japan
 なぜ、わざわざ英語の表示があるのかという理由は、本文を読むとわかる。
 火野葦平の本を読んだことはない。しかし、「名前だけ知っている作家」というよりは、ほんのちょっと知っている。『花と龍』の作者だと知ったのは、高倉健主演の映画「日本侠客伝 花と龍」がきっかけかもしれない。誰が書いたか覚えていないが、日本映画史といった内容の文章だったと思う。ポスターなどの映像から、ヤクザ映画だと思った。映画は見ていない。ヤクザ映画の原作者に興味はなかったが、何かを調べているときに、この『花と龍』(1953)は、作者の父親、北九州若松の沖中士の会社玉井組組長が主人公の物語で、ほぼ実話らしいと知った。ちなみに、ウィキペディアによれば、「沖中士」は現在差別語になっているらしく、マスコミでは「港湾労働者」と書き換えないといけないそうだ。
 玉井組組長の息子は、早稲田大学英文科に進み、小説や詩を書いていたらしい。在学中、志願して軍人になるが(理由不明)、左翼思想の持ち主だということがわかり、除隊処分。帰郷して、玉井組の人間になる。のちに作家となり、兵隊物を多く書く。
 私が知っていたのはこのくらいのことで、私のイメージは、この「兵隊物」とは、田村高廣勝新太郎の「兵隊ヤクザ」だったのだが、こちらは有馬頼近の『貴三郎一代』(1964〜66)が原作だった。
 私の乏しい知識で、ヤクザ物と兵隊物を書いていた流行作家というイメージしかなかった小説家が、まだ海外旅行が自由化されていない時代にアメリカに行ったという事実がうまくかみ合わない。日本人の海外旅行体験というのも、私の研究分野なので、この『アメリカ探検記』を買うことにしよう。売価は300円。考える値段ではない。アマゾンでも高くない。ということは、あまり評価されていない本だということか。のちにほかの出版社から出ることもなく、ましてや文庫になることもなく、古書界で細々と生きて来たこの本をたまたま買ったことで、ふた月ほどの間、私の読書時間とかなりの金銭が消費されることになってしまった。
 1964年以前の日本人の海外旅行は、「行けない」が原則だったが、いろいろな抜け道があった。日本政府が認める視察旅行とか、マスコミから「臨時特派員」の肩書をもらって出かけるという方法などがある。三島由紀夫は、朝日新聞社の特派員という身分で外国旅行をするチャンスを得た。外国の政府や機関からの招待なら、費用はすべて相手も地なので、出国の許可は出やすかった。
 火野葦平は、1958年9月からふた月ほどの日程でアメリカを旅行した。アメリカ政府国務省の招待旅行だ。軍の報道部員時代に書いた兵隊物三部作、『麦と兵隊』、『土と兵隊』、『花と兵隊』(いずれも1938年)で売れっ子の国民的作家になり、そのせいで戦後は公職追放になった小説家が、アメリカからの招待を受けての大旅行だ。1907年生まれの売れっ子作家、この年、51歳だった。