835話 神保町で火野葦平に出会う  その3


 1958年のアメリカ政府の招待旅行は、長崎県議で漁業会社社長という人物とワシントンまで一緒に旅して、あとは自由という2カ月の旅だ。なぜ県議も招待されたのか、火野も「わからない」と書いている。それどころか、火野自身も、なぜアメリカ政府に招待されたのか、「われながら狐につままれた思いになる」といぶかしく思っている。なにしろ、アメリカは13年前までは戦争をやっていた敵国なのだ。
 火野は若いころ左翼運動をしていた。大学を中退してからは、沖中士の労働運動をやって投獄されている。戦後は、東京裁判を批判した『戦争犯罪人』を書き、沖縄の米軍基地を批判する小説や戯曲を書いている。3年前には、中国や北朝鮮にも行っている。「つまり、私は、アメリカに入る資格がないわけである」。ただ、幸せなことに、マッカーシズム赤狩り)は1954年に終わっているのだが、それでもいわくある作家を招待したということは、売れっ子作家を利用したアメリカの宣撫活動であることは明らかだ。アメリカ領事館職員が言う。
 「よくアメリカを見てください。よいところも、悪いところも。そして、遠慮なく、考えた通り書いてください」
 「招待されて行っても、お国に気に入るように書くかどうかはわかりません」と火野が言うと、「どうぞ、言論は自由です」と、太っ腹だった。1958年、日本はすでに一応は独立し、進駐軍支配下にはなかった。
 火野葦平、戦中戦後の大がつく売れっ子作家。この年、アメリカ旅行で2か月間日本にいなかったにもかかわらず、出版した本は、全8巻の選集のほか、単行本が11冊もある。前年の1957年には単行本8冊を出している。
 アメリ国務省の待遇が詳しく書いてある。興味深いので、紹介しておこう。旅行ルートは、羽田―ホノルル―サンフランシスコ―ワシントン。ホノルルとサンフランシスコでは世話役が出迎えて世話をする。ワシントンで同行者と分かれ、アメリカ側が用意した通訳兼ガイドとの自由行動となる。飛行機代など交通費はすべて招待側がすでに支払っている。ホテル代や食費など、すべての出費は、1日あたり17ドル支払われる日当から自分で支払う。1ドルが360円時代、17ドルは6120円である。30日分なら510ドル、18万3600円になる。この当時、日本では小学校教師の初任給は8400円。帝国ホテルのシングルルームが2100円、民宿だと350円だ。アメリカとは物価が違うのだが、1日あたり17ドル支給というのは、売れっ子作家にとっても「なかなかの金額」と感じさせた。
 ハワイでもサンフランシスコでも、世話をしてくれる人は日系人や日本人たちで、移民や戦争花嫁に関心が向くのだが、取材旅行ではないので、深い話にはならない。これは、この旅行記全般に言えることで、けっしていいかげんな漫談に終始することなく、克明に日々の行動をメモしながら旅をしていて、文章にはそのメモが反映しているのだが、おもしろみがない。アメリカの物質文明や精神文化に対する目立った反応もなければ、感情の揺れもない。けっして手抜き本ではないが、だからといっておもしろさに満ちているわけでもない。アメリカ万歳ではないし、アメリカ罵倒でもない。冷徹なアメリカ観察でもない。この旅行記の評価が低いのはそのせいだろう。
 今回のアメリカ旅行において火野の関心は、真珠湾などかつての敵国の今ということと並んで、民族問題だったらしい。「リトルロック事件」という文字が2度出て来る。
 「アメリカ旅行のプランとテーマとは私なりにいくつか持っているが、黒人問題もその一つで、私はぜひ、アーカンソー州リトルロックに行ってみたいと考えていた」
 以前、アメリカの黒人解放運動を調べたことがあるので、私にとってはなじみのある事件だが、当時の日本ではどの程度紹介されていたのだろうか。学校が白人用と黒人用にわかれていたのを、「共学」にしようとして起こった混乱は、黒人の入学を阻止しようという白人による大規模な行動が、州兵が出動するまでの大混乱になったというのがリトルロックの騒乱だ。
 自分は、アメリカで差別されてきた被害者としての日系人も含めた日本人のひとりであると同時に、日本の朝鮮人差別や部落差別では加害者側である自分という認識が、火野にはある。そういう火野だが、アーカンソー州に行く余裕はなかったと思われる。この旅行記には、アーカンソー州に行ったという記述はない。リトルロック事件の成り行きを、新聞で見ているだけだった。
 この旅行記の後半に入って、傍線を引いた部分が2か所あった。場所はいずれも、ハーバード大学とその周辺だ。
 「車に乗り、ウォルデン湖に行く。ここは自然詩人であったヘンリー・ダヴィッド・ソーローが住み、『ウォルデン湖物語』を書いたことで有名である」
 調べてみれば、ソロー(ヘンリー・デビッド・ソロー 1817〜1862)はたしかに日本でもすでに有名だったらしい。アメリカの思想家として、日本でも昔から別格の扱いだったらしい。日本で最初の翻訳は、”Walden: or, Life in the Woods”(1854)を、『森林生活』(1911)として出版したもので、以来今日まで数多くの翻訳書や解説書が出版されている。現在は、『森の生活』というタイトルで翻訳されることが多い。
 1918年、宮崎に「新しい村」を建設した武者小路実篤はすでにこの本を読んでいたらしい。ソローの本は、南アフリカガンジーが読み、ロシアでトルストイが読み、若き日のマーティン・ルーサー・キングが読んだ。1992年にアラスカの森の中で餓死した若者を追ったノンフィクション『荒野へ』(ジョン・クラカワー、佐宗鈴夫訳、集英社、1997。映画化されたタイトルは「イントゥ・ザ。ワイルド」)で、この若者、クリストファー・マッカンドレスの遺品にソローの『森の生活』があったことがわかる。書き込みもあり、熟読していたあとがある。現在も読み継がれている本だ。
 火野葦平もまた、ソローにいくばくかの関心があったのだろうか。
 この旅行記に傍線を引いたもう1か所の話は、次回に。