火野葦平の『アメリカ探検記』を読んでいて頭に浮かんでいたのは、「たしか、この時代に小田実もアメリカを旅していたはずだが・・・」ということで、小田の『何でも見てやろう』と比較すると、火野の旅行記はどの程度の物なのかという好奇心もあって読んでいた。
小田のアメリカ留学は、ウィキぺディアでは、「1959年、米フルブライト基金により渡米」とあるが、『何でも見てやろう』には、「58年の夏」と書いてある。1958年夏から60年4月までが小田の旅だ。火野の旅は1958年9月から2ヶ月間だから、同時期の旅になるわけだが。小田26歳、火野は51歳。親子ほど歳が違う。
『アメリカ探検記』には2カ月の予定で旅をすると書いてあるのだが、9月23日に日本を出て、最終ページ近くになってもまだ10月なかばである。尻切れトンボの旅行記だ。ほぼ最終のページに、こういう記述がある。その部分が傍線を引いたもう1か所だ。
「十月十六日 ボストン最後の日。明日はシカゴへ飛行機で飛ぶのである。
午後五時、ハーバード大学東洋学教室のジョン・F・フェアバンクス教授の家で座談会。大学構内にあるニューイングランド風な簡素な家。コーヒーとサンドイッチ。教授や夫人、学生、日本人、朝鮮人など三十人近くが集まって来る。その中に、河出書房にいて、『明後日の手記』『わが人生の時』などを書いた小田実君がいてびっくりした」
なんと、ふたりはハーバードで偶然会っているのだ。小田が自己紹介したかどうかわからないが、この売れっ子作家が、大学を出たばかりの若き作家を知っていたことも驚きだ。
さて、この日のことを小田は何か書いているだろうか。書棚から『何でも見てやろう』を取り出して、ページをめくると、「火野」という文字が目に入った。ちゃんと傍線が引いているのに、この部分、読んだ記憶が消えている。小田が火野について書いているという記憶がまったくなかった。いままで火野にまるで関心がなかったからだ。
ハーバードで茶話会のようなものがあり、「火野氏は最近の中国について即席のスピーチを求められた」とある。火野のスピーチに対して、「火野氏は明らかにわれわれの一員だが、すくなくとも、そういう考え方が万雷の拍手をもってむかえられることはない」と書いた。
「われわれの一員」というのは、中国を支持している者たちという意味だ。「そういう考え方」というのは、スピーチの内容だ。火野は現在の中国について、「中共には餓死はなくなったが、自由もなくなった」と言ったが、小田が期待した表現は、「中共に自由はなくなったかもしれないが、餓死もなくなった」だった。つまり、小田にとっては、我々日本人はちょっと前まで餓死寸前だったのだから、食えるようになるのがイチバンで、その部分を強調するべきであって、自由があるかどうかなど云々したくないというようなことを書いている。のちの小田の行動や発言を考えれば、おそらく、共産国と自由の問題には触れたくないのだろう。そうでなければ、北朝鮮支持の本は書けない。
アメリカから帰国して、火野は再び原稿執筆の日々に戻る。『アメリカ探検記』の執筆のほか、作家の戦争責任を自ら問うた小説『革命前後』を書き続ける。1959年12月、『アメリカ探検記』発行。年が明けて、1960年正月、『革命前後』の「あとがき」を書く。1月10日、『アメリカ探検記』早くも重版。1月24日、自宅で心臓発作のため急死。1週間後、『革命前後』発行された。翌1961年2月、小田実『何でも見てやろう』出版。想像で書くが、アメリカで会った人の突然の死だったので、小田は火野のことを書いておきたくなったのかもしれない。1972年、火野の13回忌の席で、遺族から、死因は病気ではなく、睡眠薬による自殺だったと明かされた。次のようなメモも公表された。
「死にます。芥川龍之介とはちがうかもしれないが、ある漠然とした不安のために。すいません。おゆるし下さい。さようなら」
芥川は、「或旧友に送る手記」で、自殺の動機を、「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と書いていた。火野は、芥川の熱心な読者だった。