840話 神保町で火野葦平に出会う  その8


 火野葦平の一行はインドを出て、香港の新楽大酒店(シャムロックホテル)にいる。私の記憶にも残るホテルで、現存。なぜ香港にいるのかという事情を、『赤い国も旅人』から、火野自身の文章で語ってもらおう。
 「四月六日から十日まで、インドのニュー・デリーでアジア諸国会議が開催されたが、それに出席した日本代表四十名あまりのうち、二十八名が中国政府に招待をうけて、中国に入るのである。私はかたよらぬ眼と心とで、すなおに新しい中国の姿を見たいと考えた。政治家、経済人、学者、労働運動家、婦人団体代表、医師、作家、詩人、宗教家など、一行はいろいろな階層の人から成っているが、左翼系と思われる人が三分の二を占めている(中略)。私は私の立場とこれまでのありかたを充分反省して、できるだけ控え目に、出しゃばらないように小さくなって、ただ新中国の実態つかみたいと意図したのであった」
 火野の「これまでのありかた」とは、ひとつは中国体験のことだろう。火野は1937年に応召して、中国に渡る。翌38年に『糞尿譚』で芥川賞受賞。現役軍人の陸軍伍長が芥川賞を受賞したということを軍(と文藝春秋)は利用して、戦争の本を書かせる。報道班員となった火野は終戦少し前まで、中国や東南アジアを取材し、文章を書いた。だから、中国の旅は、ヨーロッパやインドの旅とも、のちのアメリカの旅行記とも火野の態度も心もまるで違う。
 『赤い国の旅人』のなかの表題作「赤い国の旅人」を読むと、中国事情にも疎い私でも、心当たりのある人の名が何人も出て来る。例えば、こういう人だ。5月1日の朝、ホテルの食堂に朝食をとりに行くと、「日本人の卓に、宮崎竜介さんがいた」とある。父は孫文と親しかった宮崎滔天(とうてん)。その縁で中国に招待されたようだ。宮崎竜介といえば、父のことや、柳原白連事件のことなど、横道にそれる要素はいくらでもあるので、今は寄り道をしない。
 「赤い国の旅人」をざっと読んでみたが、なんだか変なのだ。『アメリカ探検記』と同じように、旅の全体が書いてない。旅の終わり部分がなく、尻切れトンボなのだ。説明がないので、この本の成立事情はわからない。『新選日本現代文学全集19巻』の川上徹太郎の解説文によれば、「赤い国の旅人」は雑誌「文芸」の1955年10〜12月号の3回にわたって連載されたものだが、もう嫌になって連載を中止したのだろうか。もう一点おかしなことがある。資料を当たって、中国訪問団の名簿は手に入れているのだが、その名簿にない人が何人か出て来る。その人がどういういきさつで中国に来ているのかという説明もない。
 そこで、さらに調べる。火野葦平の旅行といえば、関西大学の増田周子さんの研究に頼るしかない。ネット上に「関西大学学術リポジトリ」というのがある。リポジトリというのは倉庫という意味だから、論文の集積倉ということか、そこに増田氏の論文があった。「火野葦平『赤い国の旅人』の成立と死中国認識」、ええ、「死中国」? なんだこれ。ほかの情報を探したら、「新中国」の誤記であることがわかったが、これは痛い。
 「火野葦平『赤い国の旅人』の成立と新中国認識」(関西大学西研究所紀要 第44号 2011)を読む。火野は膨大な取材メモを残している。増田氏はそのメモと、出版された「赤い国の旅人」とを比較して、著者の工夫や演出を調べた。
増田氏の論文は、私の疑問に答えてくれた。「尻切れトンボ」というのは、具体的にはこういうことだ。一行が中国に入国するのは4月21日、帰国日は6月9日。しかし、『赤い国の旅人』は、4月21日から、5月4日までしかない。中国滞在中に10日ほど北朝鮮に行くのだが、それでも一部しか書いていないと言える。そうなった理由を、火野本人が書いている。「文芸」の連載3回目の文章の最後に、「後記」を書いている。
 「(400字原稿用紙)百枚ずつ三回という約束で書きはじめたのですが、三百枚では足らぬうへに、或る事情のため、第三回は五〇枚ほどしか発表できぬ仕様になりました(中略)この続編は描き下ろしとして朝日新聞社から単行本として刊行されることになって居ります」
 加筆して単行本にしたといっても、加筆部分はわずかだ。初めから全行程を書く気がなかったのか、書く時間がなかったのかはわからない。しかし、書くのは大変だったらしい。3回目の原稿が「五〇枚ほど」になった理由は、天皇について書いた部分だろうと増田氏は考察している。そういうトラブルとは別に、この中国旅行の話は、書くのがつらかっただろうと思う。それについては次回に詳しく書く。