843話 吉田集而さん、それはちょっと変ですよ


 古本屋で、こんな本を見つけた。私は酒を飲まないので興味もなく、新刊をチェックしてなかった。『酒がsakiと呼ばれる日―日本酒グローバル宣言』(玉村豊男・吉田集而編、タカラ酒文化研究所、2001)という本だ。
 アメリカで、日本酒のsakeがどのような理由でsakiと呼ばれるようになったのかを、どう説明しているのか気になって、立ち読みしてみた。このテーマの執筆者は、吉田集而(よしだしゅうじ、文化人類学、元国立民族学博物館教授)さんだった。この本が発売されたのが2001年10月で、12月に脳幹出血で寝たきりになり、2004年に亡くなった。倒れる数年前に何度か雑談をしたことはあるという程度の関係だが、吉田さんの文章を読んでみると、ちょっと口を差し挟みたくなった。吉田さんはこういう内容の文章を書いている。
 酒のローマ字表記は日本語の発音のままsakeと表記するのが正しいのだが、こういう表記だと英語の発音に引っ張られて、「セイク」と読まれてしまう。そこで、正しく「サケ」と読まれるように、sakèやsakêのように記号をつける人もいるが、コンピューター時代には不便だ。そこでsakiと書けば「セイク」とは読まれないから、sakeをやめてsakiにすればいい。
 この吉田説のどこがおかしいのか。
1、sakeと書いて、外国人すべてが「セイク」と発音するわけではない。英語しかできない人で、日本酒を知らない人は、たしかに「セイク」と発音するかもしれないが、フランス人やイタリア人や、たぶんインドネシア人も「セイク」とは読まない。sa-keのように書けば、アメリカ人でも「セイク」ではなさそうだとわかるだろうが、だからと言って「サケ」と発音できるわけではないのだが。
2、吉田さんは、なぜsakiなのかという説明をしてない。「セイク」と読ませないためというのでは、説得力はない。このアジア雑語林40話ですでに書いているのだが、英語を母語にしている人は、語尾のeを「エ」の音で発音できない。name, make, dateなどでわかるように、「エ」の音では終われないクセがある。竹はtakeだが、「タケ」とは発音できない。robeは「ロベ」ではなく「ローブ」だ。松江はmatsue だが、「マツエ」とは発音できない。たぶん、「マツイ」のような音になる。神戸はkobeだが、「コーベ」とはなかなか発音できない。元プロバスケット選手Kobe Bryantは、神戸ステーキにちなんで名づけられたのだが、発音は「コービー・ブライアント」だ。coffeeはカタカナで書けば「カフィー」か「コフィー」で、フランス語のcofé やイタリア語のcofféは、アメリカでは「キャフェイ」のようになる。「カフェ」と発音するのは難しいのだ。
 つまり、sakeだと「セイクになる」云々は問題ではなく、どう表記しても、「サケ」と発音する気のない人は、発音できないのだ。
 ポルトガル人はたぶん、sakeで「サケ」と発音できると思う。ただ、ブラジルでは事情が違う。ポルトガル語「夜」は「noite」で、ポルトガルではノイテだが、ブラジルではノイチになる。語尾のeは、ブラジルではiの音に変わる。Boa tarde(こんにちは)は、ポルトガルでは「ボア・タルデ」、ブラジルでは「ボア・タルヂ」というように変わる。こう考えると、アメリカ人など英語を母語にしている人が便利なように、日本語のローマ字表記を変えるというのは本末転倒だ。それぞれの国で外国語の表記や発音が変化していくのは当然で、だからと言って、日本人がアメリカ人のクセに合わせて日本語のローマ字表記を変える必要はない。それよりも、sakeは「セイク」でも「サキ」でもなく、日本人は「サケ」と発音するのだという広報活動をした方がいい。やるだけやって、あとは成り行きに任せるしかない。
 こういう文章がすでにいくつもあるのだから、日本側がもっと広報をすればいい。
 http://www.sakesocial.com/blogs/beau/11418689-sake-or-saki
http://www.jref.com/forum/threads/is-it-saki-or-sake.51160/
アマゾンでsakeの本を調べれば、”sake”のままタイトルに使っていることがわかる。
https://www.amazon.co.jp/s/ref=sr_pg_1?rh=n%3A52033011%2Ck%3Asake&keywords=sake&ie=UTF8&qid=1468689925
 現状がこうなのだから、日本人がわざわざsakiに変えることはない。もちろん、sakeと書いても、「サキ」と発音する人はいくらでもいるだろうが、まあ、それはしょうがない。日本人は、hitという文字を見ても、ヒット(hitto)としか発音できない。そいうクセなんだからしょうがない。それと同じことだ。