844話 「これは男だけなのかもしれませんが・・・」


 三代目桂米朝は生き急いだらしい。2015年に90歳で亡くなったのだから、「生き急ぐ」も何もないだろうと思うかもしれないが、急いで生きたことは確かだ。
 落語好きの青年中川清が三代目桂米朝になったのは1947年だった。当時の上方落語は消滅寸前の状態だった。関西は漫才が中心で、落語は見向きもされなかった。東京で学生だった時代に師事した落語研究家正岡容(いるる)から、「上方落語を再興せよ」という命を受けて、奮闘努力の日々を送る。ちなみに、正岡門下には、小沢昭一大西信行加藤武都筑道夫らがいた。
 上方落語の再興は、具体的には落語家の育成と、忘れ去られた演目を記録し保存することだった。米朝はそれを1960年代にほぼ成し遂げていた。年齢的には40代から50代でほぼ再興計画は完了していた。米朝は大急ぎでこの計画を実行し、成果を上げて行った。米朝はなぜ急いだのか。長男の五代目桂米團治がラジオで語っていたのだと思うが、「生き急いでいた」というようなことを語っていた。その理由は、「自分は長く生きられない」と信じていたかららしい。米朝の実父も、正岡容も、落語の師匠四代目桂米團治も、50代で亡くなっているから、自分もたぶん50そこそこまでの命だと思い込んでいたらしい。だから、上方落語再興計画は迅速に実行する必要があった。急がなければ、自分が生きているうちには再興の証は見えないと思い込んでいたらしい。
 ある時、ある俳優が、ラジオで「これは男だけなのかもしれませんが・・・」と言って話し出した。父親を若くして亡くした息子は、父親の年齢を越えられるかどうか悩むのだという話だった。「オヤジが死んだのは49だったから、50を越えるまではずっと不安でね・・・」といったような話だ。そういえば、この手の話を何度も読んだり聞いたりしているのだが、いずれも男の話だった。あいまいな記憶で言えば、五木寛之久米宏もそういう「息子」だったようだ。
 母を若くして失った娘も、「母が死んだ年齢を自分は越えられるかどうか悩む」ということはあるだろうが、誰かが書いたりしゃべっていた記憶がない。一般的に、父よりも母が長生きするからだろうか。それとも、女が書くエッセイを、私があまり読まないせいだろうか。
 私の父もそういう「悩める息子」だったと、父が死んでしばらくして知った。何かの話の流れで、母が話したのだ。父の父、つまり祖父は父が子供のころに死んだという話は聞いたことがあった。母方の祖父も若くして死んだので、私は両方の祖父に会ったことがない。父方の祖父が死に、農作業は祖母(父の母)と兄がやり、家事は姉がやったそうで、父にとって姉は母親のような存在だったという話は両親から聞いていた。父親代わりに働いた父の兄には高校生時代に会っているが、脳梗塞の後遺症でほぼ寝たきりの状態で、間もなく亡くなった。父からすれば、「父と兄」のふたりの男の死が、父の生死感に大きな影響を与えたようだ。
 父が初めて入院したのは40歳になるかどうかというあたりのはずで、私は幼稚園児だった。母の話では、そのころから自分の将来は祖父のように早死にするか伯父のように寝たきりになるかと想像していたらしい。「長生きはできそうにない」という心配を抱えていたものの、60歳を越えることはできた。しかし、その不安のままに、間もなく脳梗塞で倒れ、家族はこの先寝たきりの生活になるのだろうと思っていたのだが、入院中にガンが見つかり、間もなく死んだ。その年齢に、今の私が近づいている。