852話 昭和の実感  その1

 レコード大賞 前編

 関川夏央の『昭和三十年代演習』(岩波書店、2013)を読んだのは、日本の海外観光旅行黎明期の時代背景を知りたいという関心からだった。この本を読もうと思ったもうひとつの理由は、映画「Always 三丁目の夕日」に対する異議だった。英語のタイトルをつければ格好いいとでも考えたのか、この陳腐な映画は、「豊かではなかったが、明日への希望があった」というキャッチフレーズで売ろうとしたが、公害問題など負の部分は見せていない。私はそういう感想だったのだが、どうやら関川さんも同じような違和感を抱いていたようだ。
 昭和30〜40年代を礼賛する「昔は良かった」という話を聞くと、私はいつも永山則夫を思い出す。あるいは、作家山下惣一の文章だ。こういう意味の文章だ。「昔の百姓が助け合って生きて来たのは、そうしないと生きていけないほど貧しかったからだ。その貧しさから抜け出そうとしたのが、戦後の農村ではないか」。助け合って生きることが「美しい」と表現するのは、後の時代の人間が言うことで、その当時の人間は、できることなら助け合わないでも生きていけるような社会を望んでいたのだ。
 昭和でいえば、27年生まれの私は、「昭和三十年代」前半の記憶はあいまいだが、ラジオから流れる春日八郎の「お富さん」(1954年)や三橋美智也の数々の歌声が、近所の家の窓越しに聞こえて来たことをよく覚えている。あのころの歌謡曲の命は長く、何年たってもまだヒット曲だった。遊び疲れた夕暮れ時、家に帰る途中の家から大音響で聞こえて来たのが、栃若、つまり栃錦若乃花の一戦だったような気がする。相撲に興味はまったくなかったが、この両横綱の名前くらいは知っていた。記憶に残るラジオ番組の話をするときりがないので、別の機会にまわす。
 小学校2年を終えて、奈良の山奥から千葉県に引っ越しをすることになった。引っ越す前日、床屋に行かされた。ちょっと混んでいて、待たされた。退屈しのぎにテレビを見ていると、新人歌手が大ヒット曲を歌っていた。ラジオで歌は聞いたことがあったが、姿を見るのは初めてだったかもしれない。「潮来笠」の橋幸夫だ。1960年7月に発売した歌なので、私がその番組を見たのは、1961年3月ということになる。橋幸夫を好きになったことなど1度もないのだが、なぜかその日のことはよく覚えている。
 昭和の偉大な芸能人といえば、美空ひばり石原裕次郎の名前がまず出てくるが、このふたりには関心がなかった。裕次郎の映画を熱心に見るようになったのは、ずっと後になってからだ。「日本人の海外旅行史」の資料として、タイやエジプトやスペインなど海外でロケをした映画を見た。加山雄三の「若大将シリーズ」も同様の理由で、ずっと後の時代に集中して見たから、同時代感はない。ただ、映画はその時代の雰囲気を反映しているから、昭和三十年代の日本映画はその時代の日本人の異国へのあこがれを読むとる資料になっているので、かつてはまったく興味のなかった日本映画を数十年後に楽しんで見た。
 その時代の有名人もテレビで見ただけで、「同時代をともに生きてきた」という実感はない。そう思っていたのだが、「生で、動く有名人」を見たことがあるらしいという記憶がよみがえってきた。レコード大賞の授賞式に行ったことがあったからだが、その日の記憶は、実はほとんどない。12月31日に生放送されたレコード大賞授賞式に行ったこと自体は、かすかに覚えている。会場は帝国劇場。開催直前にあるルートで、「ほしけりゃ、あげるよ」といわれて招待券をもらったから行っただけのことで、出演者に興味があって行ったわけではない。だから、それがいつのことか記憶がないのだ。出演者に記憶があれば、それが何年のことかすぐにわかるのだが、大賞受賞者も司会者も覚えていない。帝国劇場でレコード大賞授賞式が開催されていたのは、1969年から84年までだから昭和ではあるのだが、その間ということではあまりに漠然としている。
 推理小説のように、記憶の扉をこじ開けて、ヒントを探そう。舞台に上がった人をひとりだけ覚えている。杖をついて、やっとのことで歩いている古賀政男だ。古賀の没年を調べてみると、1978年7月だった。ということは、私が見たレコード大賞は1977年以前ということになる。
 私の席は比較的前の方のいい席だった。後方を振り返ると、後部席の最前列、前部と後部を分ける通路側の席に、宇崎竜童・阿木燿子夫妻が座っていたのを覚えている。受賞者ならもっと前方に坐っているはずなので、その日は招待者だったのだろうか。
 少しずつ謎が解けてきたぞ。あとは、次回に。