857話 昭和の実感 その6

 謡曲に包まれた幸せ 中編


 日本の歌謡曲史を読むと、田舎から都会に出て来た若者が、故郷にいる恋人や母を想う歌、あるいは都会に出て行った恋人を想う歌がいくらでもあったことを思い出し、調べてみればタイにも同じジャンルの歌があるとこに気がつく。経済成長期の農村と都会がテーマだ。タイでは、1970年代に入って、若者しか聞かない音楽が登場する。そこにはもはや農村や「故郷」の匂いはなく、都会の快適な生活が歌われている。ガキがカネを持つようになって、子供が音楽産業の消費者になったということだ。若者音楽の誕生は、日本では1950年代末の日劇エスタンカーニバルからGS(グループ・サウンズ)の流れと重なる。こういうことが、だんだんわかってくる。
 あるいは、古い歌謡曲ほど西洋色が強いということもわかってくる。西洋音楽が入ってきた時代、アジア人はまだ西洋音楽の作曲ができないから、西洋の音楽に自分たちの言葉で歌詞を当てはめる。タイ国歌の作曲者はドイツ人のプラ・チェン・ドゥリヤーン、マレーシア国歌の作曲者はフランス人のピエール=ジャン・ド・ペラジェ、君が代も採用はされなかったが西洋人が作曲したバージョンがあったというようなことがわかってきた。
 日本の昔の歌手は、音楽学校の卒業生が多かった。クラッシックの正しい発声法であるベルカントで歌っているのが、古い歌謡曲だ。音楽に民族色が出てくるのはかなり時間がたってからだ。服装もまた同じような事情で、和服を着て歌謡曲を歌った最初の歌手は三波春夫である。明治大正から昭和戦前期でも、西洋音楽は洋服を着て演奏し歌うものだった。国定忠治をテーマにした映画の主題歌「赤城の子守唄」は、燕尾服姿の東海林太郎が歌った。音楽も歌手の服装も、西洋式からしだいに日本風へと変わって行ったのだ。
 そういう事情は、日本近代建築史を調べていてもよくわかった。明治の日本は、日本を西洋にしたかったのだ。丸の内はロンドンにしたかった。建物がいかに西洋そのままかということが価値の高さだった。サルまねの時代の頂点が、赤坂の迎賓館だ。ベトナムにフランス風の建築物があり、インドにイギリス風の建築物があるのは植民地政策によるものなのだが、西洋の植民地にはならなかった日本は、みずから植民地のような建築風景を作りあげることにまい進し、満足していたのだ。迎賓館のあと、日本人は、「日本の建築」を考え始める。帝冠様式というものだ。食文化でも同じようなことが言えるのだが、それは別の機会に書くことにする。
 話を音楽に戻す。
 日本の近代音楽史に関するこういった雑多な情報を仕入れてから、日本の歌謡曲を聞き続けていると、タイの音楽を聞いていても、伴奏楽器や曲調によって、発表した時代や音楽ジャンルがわかってくる。「これはペギー葉山」だな、とか「三橋美智也だな」というようなことがわかり、それはタイでも別のジャンルに分類されていることがわかる。つまり、こぶしの有無だ。
 タイの音楽にも、サイモン&ガーファンクル風もあればディスコ調もある。「サンタナをパクったイントロだな」ということもすぐにわかる。タイの音楽を知らないのに、聞いているうちにタイの音楽事情もわかってきたのは、私は幸せにも歌謡曲全盛時代に少年時代を送ることができたからだ。聞く気もないのに耳に入ってきた音楽が、基礎教養となってこれまでの自分を支えてくれた。少年時代、絶えず歌謡曲に包まれていたからか、幸運にもロック少年になって英米音楽一辺倒にならずにすんだ。「ロック命」の少年になると、頭の中が英米音楽で充満してほかの音楽の入る余地がなくなる。熱狂的クラシックファンも同様だ。自分が注目する音楽ジャンルに閉じこもらないで済んだのは、少年時代に歌謡曲に包まれた時間を過ごしたからであり、世界を旅したいという思いが、R&B→ブルース→アフリカ音楽や、歌謡コーラス→ラテン音楽→ブラジル音楽というふうに、私の関心が広がったせいでもある。