858話 昭和の実感 その7

 謡曲に包まれた幸せ 後編


 レコードやラジオで消費される大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)が日本でも生まれ、初めは「流行り歌」、そして「流行歌」と呼ばれていたが、「流行もしていないのに、流行歌と呼ぶのはいかがなものか」という日本放送協会からの異議申し立てがあり、「歌謡曲」と呼ばれるようになった。
 歌謡曲はヌエ(鵺)だ。世界各国には、歌謡曲がある。古今東西の音楽を取り込んで、自分の物にするのが歌謡曲で、日本の場合なら、小唄や民謡はもちろん。ジャズもタンゴもマンボも取り入れ、シャンソンカンツォーネ(イタリアの歌謡曲)もハワイアンでも、何でも取り込む。タイの歌謡曲ルークトゥンも同様だ。今から10年ほど前だったか、バンコクの食堂で豚足飯(カーオ・カー・ムー)を食べていたら、テレビから聞きなれた音楽が流れて来た。画面には、タイの歌謡曲ルークトゥンではおなじみのフリルや鳥の羽根をつけたダンサーを従えた歌手が歌っていたのは、ギニアの歌手モリ・カンテの「イェケイェケ」だ。こういう歌をタイの歌謡曲にしたのである。そのくらい、歌謡曲は貪欲の大食漢だ。
 https://www.youtube.com/watch?v=cIUD1Z3pU1g
 友人の音楽評論家によれば、タイ人がギニアの歌をとりいれたいきさつは、日本でも流行ったこの世界的ヒット曲が、香港ではカバーされ、それがタイに流れたらしい。タイ人と音楽に関する本を書いた後、私の興味は海外旅行史に移ったが、こういう音楽の流れも海外旅行体験と重なるので、歌謡曲への興味はますます強くなり、ワールドミュージックも関心分野にしっかりと入ってくる。
 若年層や中年でも、歌謡曲とは演歌のことだと誤解している人が少なくない。1960年代の後半にレコード会社は、日本音階である5音音階(俗にヨナ抜きという。7音音階の4番目のファと7番目のシを抜いた音階)を使い、日本人の情念をテーマにセンチメンタルに歌い上げるジャンルを「演歌」と名付けて売り出そうとした。この戦略が大当たりして、その後は演歌が歌謡曲の太い柱となった。だから、演歌は歌謡曲のなかの1ジャンルなのであって、歌謡曲が演歌そのものではないのだ。
 演歌が台頭してくる前の歌謡曲全盛時代、1950〜60年代の豊かな音楽時代を、ラジオで改めて聞き、いまはYoutubeで聞いている。タイの音楽事情を調べる過程で、日本の1950〜60年代の音楽を改めて体験し、今は楽しんで聞いている。
 あの時代は、歌謡曲の黄金時代だった。リズムとメロディーの百花繚乱時代だった。外国生まれの音楽だけでも、ジャズには、旗照夫、笈田敏夫青江三奈ほか多数。ロシア民謡では、ダークダックス、ロイヤルナイツほか多数。ハワイアンには、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、大橋節夫とハニー・アイランダース、日野てる子ほか多数。シャンソンでは、石井好子越路吹雪ほか多数。カントリー&ウエスタンでは、小坂一也、ジミー時田ほか多数。ラテンでは、坂本スミ子アイ・ジョージアントニオ古賀黒沢明ロス・プリモスほか多数。アメリカンポップスでは、ザ・ピーナッツダニー飯田パラダイスキング(ハワイアンからポップスに)ほか多数。クレージー・キャッツはジャズバンド、ドリフターズはカントリーバンド、内山田洋とクールファイブはドゥワップ出身。浅川マキやカルメン・マキのデビューは60年代末。日本の音楽では、民謡の三橋美智也が有名。大塚文雄や金沢明子が登場するのは1970年代。浪曲では、三波晴夫、村田英雄、二葉百合子ほか多数いた。そして、ここにあげたほとんどすべての音楽ジャンルを歌いこなしたのが美空ひばりだった。この時代は映画音楽の黄金時代でもあり、ヒットチャートにはいつも映画音楽が何曲か入っていた。洋楽といっても英米音楽だけではなく、フランスやイタリアや中南米の音楽も入ってきて、そういった音楽がラジオから流れ出て来た。私はそういう音楽環境のなかで育った。それは実に幸せな時代だったのだが、当時はその価値に気がつかなかった。だから今は、ジャズやアフリカ音楽などと同時に、「今日は、西田佐知子にしよう」とか「ムードコーラスを聞いてみようか」などとユーチューブで歌謡曲を聞き、たまにはCDを買いに行く。
 日本の大衆音楽史を詳しく、かつわかりやすく知りたい人には、かの大滝詠一御大の名講義が何本か残されている。第4夜は聞くことができないが、すべては傾聴に値する。
 https://www.youtube.com/watch?v=hn4UKr6DhoY
 桑田圭祐が好んで歌謡曲を歌うのは、1956年生まれという時代背景にも関係がある。歌謡曲の黄金期を体験しているほぼ最後の世代なのだ。