860話 昭和の実感 その9

 戦争の記憶


 私は戦後生まれだから、戦争の実体験は当然ない。しかし、大人たちから、幾度か戦争の話を断片的に聞いた。
 少年時代、父と風呂に入っているときに、父は体に銃で撃たれたあとがいくつかあるという話を、傷跡を見せながらした。戦争を知らない私には、説明を聞かなければ、銃弾の傷だとはわからなかった。
 「鉄の破片はまだいくつか残っているけどな・・・」
 戦時中、軍需工場にいた母は、空襲で全財産を失った。母の母(祖母)の再婚によって、いわゆる実家を失った母は、少女時代を過ごした上海の思い出の品や写真を持ち歩いていたが、空襲で命と着ている物以外すべてを失った。
 小学生時代の、私の戦争の記憶は、ラジオの「尋ね人」だった。夕方だったと思うが、ラジオから流れてくる不思議な時間が気になっていた。戦前から戦後に、日本本土はもちろん、南方や満州や朝鮮で、戦友やご近所だった人達の消息を尋ねて情報を求めるという番組だった。NHKに寄せられた投書を簡潔にリライトされた原稿をただ読んでいくだけの無味乾燥した番組でありながら、私にとっては意味不明の外国の地名が次々と出てくる異空間の時間だった。戦争と関わりのない少年は、聞きなれない音の地名に心が踊らされ、のちに外国旅行をしたいと思うきっかけのひとつになった。この番組は1962年、昭和37年に終了した。NHKの判断で、このころに「戦争の時代」が終わったと考えたのだろう。
 中学生になった私は、神田神保町の古本屋通いと共に、上野に博物館通いもやっていた。美術品偏重の国立博物館権威主義臭くておもしろくなかったが、科学嫌いなのに科学博物館は興味深く、友の会会員だったこともある。京成上野駅を出て右側、上野公園に登る階段は、1980年代は偽造テレフォンカードの束を手にしたイラン人でごった返していたが、1960年代にはまだ傷痍軍人がいた。白衣にアコーデオンを持っていた。義足、サングラスという姿も覚えている。
 中学時代の教師たちから、戦争にまつわる話を聞いた。当時の大人たちにとって、戦争はまだ「大昔」にはなっていなかった。特攻隊の生き残りだという教師がいた。戦争が終わってまだ20年、その教師は40前だったかもしれない。「いつでも死ぬ」と決心して過ごした日々と、飛べる飛行機がなかった現実の話を戦後生まれの中学生たちにした。
 復員のときに、広島を見たという数学教師の話も聞いた。国語教師は、やはり復員のとき、汽車が停車した駅の看板に「垂水」(山陽線兵庫県)の文字を見て、軍人になる前は国文学を学んでいた大学生だった若者は、万葉集が浮かんだという。戦争が終わり、また学生に戻れるという喜びがあったと言いながら、黒板に歌を書いた。
 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
 そういえば、今思いだした。その昔、押入れの中の茶箱を整理していたら、底に大きなリュックサックがあった。父は何も言わなかったが、それはおそらく父が中国から復員してくるときに背負ってきたリュックなのだろう。父が死ぬまで、茶箱の底で眠っていた。
 道具箱のなかに、使ったことがほとんどない細いヤスリが何本もあることも思いだした。軍需工場で終戦を迎えた母は、「好きな物を持って行っていい」という上司の言葉で、手元にあったヤスリを数本封筒に入れて持ち出したようだ。それは、まだウチにある。
 あれは小学生時代だから1960年代前半のことだが、ウチから数駅のところに倒壊寸前の木造の大きな建物が数棟あった。伸びきった雑草に囲まれて、その1角だけが異界だった。のちに知ったのだが、そこはかつての兵舎が並んでいた場所で、戦後は引き揚げ者住宅として使われ、私が見たころは生活困窮者向けの市営住宅にもなっていたようだ。私は街場育ちではないので、防空壕跡を見た記憶はない。
 戦後生まれの者にも、それなりに戦争の記憶はある。
 「昭和の実感」の話は、これで終了。