872話 スポーツアナウンサーの日本語力


 スポーツのアナウンサーをどう評価すればいいのか、迷う。古館伊知郎がフリーアナウンサーになったころだったか、こういう話をしていた。
 「これまでアナウンサーがやっていた仕事は、いまはタレントとか俳優がやるようになったでしょ。バラエティーの司会とかナレーションとかニュースキャスターなどは、もはやアナウンサーに用意された仕事ではなくなった。そのなかで、これぞ、アナウンサーの仕事と言えるものは、スポーツアナですね。野球でもプロレスでもF1でも、スポーツの中継ができるのは、アナウンサー以外にない。これが、アナウンサーに残された最後の仕事です」
 あるアナウンサーが、野球アナウンスの修業の話をしていた。駆け出し時代、いつも球場に通い、スコアブックをつけながら、放送されないアナウンスをして(マイクを使わないただの練習。あるいは録音して先輩に聞いてもらう)、いつの日か自分の声がラジオやテレビから流れる日に備える。スポーツアナの世界には、そういう修業時代があるので、先輩後輩の秩序が運動部のようになるようだ。
 たしかに、中継の瞬発力はすごいと思う。野球はのんびりしたスポーツだが、サッカーやバスケットボールのスピードに声が乗り、ややこしい外国人の名前を的確に連発して、しかも長時間持続する技量は大したものだとは思う。
 以上の点では、スポーツアナは努力の人たちだと言えるのだが、話している内容となれば、それはまた別の話だ。
 例えば、夕方のラジオニュースが終了し、野球中継が始まる。そろそろFM局に変えようかと考えていると、「今夜は、ジャイアンツにとって大変大事なゲームです」のアナウンス。チーム名は変わるが、同じセリフを毎夜毎晩繰り返す紋切型の典型。
 スポーツアナの、「こういうのはやめてほしい」の、いくつかの例。さまざまなスポーツ中継で、感動の押し売りアナウンス、絶叫につぐ絶叫、テレビだということに気が付いていない不要な描写、見ればわかるよ。多くしゃべればしゃべるほどえらいという価値観、これは時間の空白恐怖症でもある。紋切型表現と貧相な語彙など。これらはアナウンサーの問題ということもあるだろうが、局の製作サイドの演出のせいでもある。「ニッポン万歳!を演出」というのが局の方針なら、愛国心を鼓舞するアナウンスをせざるをえない。試合の、できれば直前に死んだ選手の親の話をして、お涙頂戴の演出もいやだ。甲子園大会やオリンピックなどがあると、アナウンサーや記者が事前に調べるのは、親族や仲間が死んだ選手を探すことだろう。
 私はスポーツ中継をめったに見ないから、ニュース番組のスポーツコーナーで見た知識でしかないのだが、サッカーファンは、ああいうアナウンスが好きなのだろうか。野球ファンは、テレビだから見ていればわかるのに、ラジオのようにペラペラしゃべって欲しいのだろうか。
 このコラムを書いてすぐに、大リーグのドジャースが地区優勝を決めた試合の最後の瞬間の放送をたまたま見た。アナウンサーは極力しゃべらないのだ。球場にやってきたファンの声を放送に乗せようと、ぽつりぽつりとしかしゃべらない。見ればわかる実況はしない。優勝が決まる直前まで、球場に集まったファンの声を放送に乗せる構成だ。こういう放送は、日本ではファンが許さないのだろう。「もっと声を張り上げろよ、暗いよ。テンション高く叫べよ!!!」だろうな。そうか、スポーツアナはクラブのDJか。
 もう恒例ですが、しばらく日本を離れて、いつものようにふらふらと旅をします。この「アジア雑語林」で旅物語を載せられるのは、年末でしょう。では、みなさん、日本の秋をご堪能ください。何か読みたくなったら、このコラムのバックナンバーをお読みください。しばし、サラバ。