882話 イベリア紀行 2016・秋 第7回


 中国余話 北京空港にて


 スペインに向かう往路の北京空港で、こんなことがあった。
 空港の出入国口の手前だから、中国に入国したわけではないのだが、空港そのものはまさしく中国で、それが生涯最初の中国との遭遇だった。
 乗り換えのときの荷物検査でのことだった。日本では、検査台に荷物を置くと、「バッグを開けてください」と言われて、自分で開けるのだが、中国では検査官が乗客のバッグを開け、なかに手を突っ込んで品物をつぎつぎと検査をする。私の場合、往路は乗り換えで荷物がうまく配送されるかどうか心配だったので、荷物はすべて機内持ち込みにした。荷物を持っての宿探しや、駅やバスターミナルまで歩くのはよくあることだから、持って歩ける重さと大きさの荷物にしている。荷物を持って移動することの多い私には、車輪付きトランクは不都合だ。
女性検査官は、乱暴にバッグを開けて、なかに手を突っ込み、乱暴にかきまわし、私の洗面用具入れを取り出し、乱暴にジッパーを引っ張った。そのとき、ビニールの本体とジッパー部分がはがれたのが見えた。検査官は何も見なかったようなそぶりで、シャンプーを取り出した。何をしようとしているのか、すぐわかった。機内持ち込みの液体は100ml以内と決まっているので、それを超えているだろうと敵はにらんだのだ。しかし、残念ながら、90mlなんですよ。そのくらいは、配慮している。検査官はバッグの底まで手を突っ込んだが、残念ながら問題がある物は何も見つけられなかった。
 「OK」といい、検査は終わった。バッグのジッパーを閉め、ゲートの方へ歩き始めて考えた。ジッパーがはがれたビニールの洗面用具入れはもう使えない。どこかで買わなければいけない。日本なら、100円ショップで簡単に買えるが、外国だと店を探すのにけっこう時間がかかるかもしれない。それに、私が自分で壊したわけではないのに、なんで自分のカネで買わなければいけないのか。カネの話はともかく、同じような品物をまた探すのが面倒なのだ。そんなことを5歩の間に考え、壊した当人に責任を問うたら中国ではどう対処するかということをあとの5歩で考え、そういう実験をしてみたくなり、振り返り、また検査台に戻った。乗り換えのために、3時間のヒマつぶしをしなければいけないので、絶好のエンタテインメントを見つけた。
 英語は通じそうにないので、検査台の脇にいた検査官に、ジッパーがとれてしまった洗面用具入れを見せ、今検査台にいる女性検査官を指さした。あの検査官が、これを壊したんだ。私の言いたいことはすぐに通じた。検査官AとBの会話が少しあり、Aは自分の犯行を認めたようだ。私の脇にいる検査官Bが、「こっちへ来るように」とジェスチャーで示した。無視や黙殺でも居直りでもなさそうだ。検査官Bのあとについて行くと、警察官がいるブースだった。漢字だから、すぐわかる。さて、警察がどうする。
 ビニールとジッパーの布をホッチキスで留めるか。接着剤で着けるか。それとも書類を埋める作業をやらせるか。言い逃れをするか。まるで、想像がつかない。
 制服姿の若い女性警察官が私に言った
 「ボーディングカードを見せて」
 私はポケットから出して示した。それを見て、彼女はうなずき、引き出しから針と黒糸を取り出した。洗面用具入れを縫うようだ。ボーディングカードを見せるように言ったのは、私が乗る便の出発時刻を確かめたのだとわかった。時間は充分にあるから、縫うことに決めたらしい。
 この若い警察官は、化粧をまったくしていないせいか、地方都市の古風な美人に見える。中国の基準は知らないが、日本風に言えば、「うちの嫁にしたい女性」コンテストの上位という風貌だ。つまり、容姿端麗かつ品行方正かつ簡素清貧という感じで、いかにも警察幹部らの評判が良さそうな人物だ。そういう容貌の警察官が、私の前に座り、私の洗面道具入れをていねいに補修している。本来なら出会うはずのない中国の警官と日本の貧乏旅行者が、ひょんなことがきっかけで出会い、警察官はその旅行者の荷物を補修している。騒然としている荷物検査場の片隅で、黙ったまま、ふたりが向いあっているという不思議な時間と空間だった。日本人の男が若いライターなら、日中合作映画の導入部として、ちょっとおもしろいシーンになるかもしれないなどと思いつつ、彼女の針仕事を眺めていた。お針子ができるほどの運針ではないが、もちろん私が縫うよりもうまい。そうか、ビニールを縫うという発想は、私にはなかった。
 10分ほどで補修を終えた。礼を言って、ゲートへと歩いた。警察官だから、サービス業のほほ笑みはない。もしも私が中国語を流暢に話すことができたら、彼女と冗談交じりの雑談ができただろうか。それとも、事務的な対応になっただろうか。
 私にとっての旅の楽しさというのは、こういう出来事だ。名所旧跡、世界遺産、神社仏閣、美術館などのどれよりも、私にはこういう偶然の出来事が好きなのだ。
 洗面具入れのビニールの本体とジッパーの布の片方がはがれたということは、もう片方もはがれるかもしれないが、まあ、その時はその時だと思って旅を続けたが、幸運にも、旅を終えても異常はなかった。そうなると、買いかえる気にはならず、そのまま次の旅の機会まで、バッグのなかで眠ることになった。接着剤を使ったのなら、簡単に買い替えられるが、ひと針ひと針縫ったものには、魔力がある。いや、魔力など信じていないのだが、人の情は、ある。