890話 イベリア紀行 2016・秋 第15回


 ファドの1日 その2


 1999年10月5日、ポルトガル中南部のアレンデージョ地方から帰宅したアマリア・ロドリゲスは、翌6日の朝8時、リスボンのこの家の寝室で亡くなっているのを発見された。79歳だった。ポルトガルは3日間喪に服し、葬儀は国葬となった。この点でも、美空ひばり(1937〜1989)を想像させる。
 今この文章を書いていて気がついたのは、アマリアの家の正面でカメラを構えたものの、職員がドアのカギを開けているので、開館の時刻になったと気がつき、ドアに進んだ。つまり、撮影していないのだ。私の頭の中に、「撮影」への関心は1パーセントくらいしかない。というわけで、アマリアの家の写真は、「他人のふんどし」で。 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g189158-d505382-Reviews-Fundacao_Amalia_Rodrigues_Casa_Museu-Lisbon_Lisbon_District_Central_Portugal.html
 1階の入場者受け付けになっている部分は、おそらくかつては駐車場だったと思われる。つまり、1階が駐車場、2階3階が住居という家だろう。駐車場は1台分くらいの大きさで、家自体たいして大きくない。私の想像では、市内にスーパーマーケットを2店持っている社長の家という程度のものだ。敷地は100坪あるだろうか。東京の高級住宅地、田園調布の大豪邸のようではないし、ましてやビバリーヒルズの邸宅という規模ではない。
 彼女の伝記、『アマリア・ロドリゲス 語る「このおかしな人生」』(ヴィトール・パヴァオン・ドス・サントス、近藤紀子訳、彩流社、2003)を読むと、彼女の個人史だけでなく、ポルトガル人の現代史もわかる。彼女は首都リスボンで生まれ育ったが、家は貧しく、「家には電気なんてものはなかったし・・」という状態で、「結局、学校には3年と3カ月通った」だけだった。そういう極貧の家の子供がポルトガル最高の大歌手になったのだが、成金という生活ぶりではなかったらしい。
 部屋に案内してもらった。案内人とともに見学するシステムになっている。アクセサリー類を展示しているケースは、当然ながら光り輝いているが、部屋全体は、比較的質素だった。台所にも案内してもらった。棚にいくつものメーカーの紅茶の缶が並んでいるのが目についた。
 「彼女の紅茶ですか?」
 「ええ、彼女は紅茶が大好きで、よく飲んでいました」
 案内人は、もしかしてアマリアの秘書だった人物かもしれない。小さめの寝室もあったので、「来客用の寝室ですか」と聞いたら、「いえ、来客用の部屋はありません」というので、もしかして泊まり込みで働いていた秘書の部屋だったのかもしれない。
台所の外は庭だった。庭のもっとも奥は、ステージになっていて、おそらくここで小さなコンサートが開かれたこともあっただろう。庭に椅子とテーブルが置いてあるのだが、これらはいかにも安物で、ビーチの食堂の椅子のようだった。
 その椅子に座って、ここで開かれたに違いないホームパティーを思い浮かべた。木の枝がじゃまでステージがよく見えないが、アマリアが亡くなって17年、そのあいだに枝が伸びたのだろう。ふと見上げると、奇妙な実が見えた、黄色っぽい大きな実のなかから小さな赤い実が飛び出している。庭の中央に植えられている大きな木は、いったいどういう木なのだろうか。
 帰国してから調べたのだが、素人の手には負えず、専門家の知識を借りることにした。植物学者の竹井恵美子さんは、すぐに謎を解いてくれた。
モクレンモクレン属の植物。日本の樹木でいえば、モクレン、コブシ、ホオノキなどの仲間です。葉の質感から見て、北米原産の泰山木(タイサンボク:Magnolia grandiflora)か、その近縁種でしょう」
 そうか、マグノリアの仲間か。マグノリアとアマリアの関係を聞いておけばよかった。

 アマリアの自宅裏庭。この庭の幅が敷地の幅だから、狭い。裏や脇の家から庭が覗ける。