907話 イベリア紀行 2016・秋 第32回


 ビルバオの宿


 知らない街に夜遅く到着したので、バスターミナルから旧市街まではタクシーを使うことにした。ビルバオ川を渡ってすぐのところで、タクシーは止まった。「その辺にホテルがあるよ」という運転手の指先の方向に歩きだし、今夜は高くてもしょうがないと思い、ひとつ星ながら、Hotelの「H」マークがついた小さなホテルに入ってみた。緊急避難ではあるが、シングルルームは満室、ツインルームはあるが75ユーロだという。外が気温マイナス10度の深夜ならこの料金でも非難するだろうが、気温は20度ほどあり、まだ宿を探す時間はある。ホテルの程度を考えたらばかばかしく高いので、出る。次の宿は、満室。その次の宿も満室。その次の次の宿は、ダブルベッドよりはやや広いという狭い部屋で、45ユーロ。トイレ・シャワーは共用。緊急避難なので即断するが、もう少し安くならないかと交渉を試みる。
 「しばらく滞在するとしたら、もう少し安くなる?」
 「明日からは、しばらく満室ですから、泊まれるのは今夜だけです」
 「ビルバオで何かあったの。祭りとかなにか?」
 「いや、特になにも。いつもですよ」
 それが、ビルバオか。
 翌朝、荷物を宿に置いて、近所で宿探しをしたが、すべて「満室」という返事だった。
これがビルバオか。昼までに宿が見つからなかったら、フランス方面に向かい、サン・セバスチャンに行くか。ついでに、ちょっとフランス側バスク地区を見に行くというのもいい。41年ぶりのフランスか。フランスで飯を食って、スペインに戻ってきてもいい。あるいは、南下してマドリッドに行ってしまうか。なるようになれの、臨機応変気ままひとり旅だ。
 旧市街では宿が見つからないので、宿をチェックアウトして、ネルビオン川を渡って新市街に入った。こうやって、荷物をもったまま宿探しをやることはわかっているから、荷物は軽く小さくしている。石畳や階段が多いこともあるので、キャリーバッグは使わない。私のような旅をしていたら、キャリーバッグだと1週間もたたずにバッグの車輪が壊れるだろう。リュックは、「いかにも」という感じがして、恥ずかしいから使わない。バスや電車では、リュックは邪魔だ。だから、私はショルダーバッグを使う。
今にも雨が降ってきそうな曇天で、少しは肌寒いという気候のせいでもあるだろうが、振り返って見える川向こうの旧市街は、東欧や北欧のように見える。「バスクに居る」という実感はまったくない。
 地下鉄アバンド駅近くの旅行案内所に行った。昨夜と今朝の出来事を説明して、安宿情報を教えてもらおうという考えだ。
 観光案内所の若い女性職員は、にこやかに私を迎えてくれた。
 「それでしたら・・」と市内地図をカウンターにのせ、裏返した。
 「ここにホテルリストがあります。好きな地区を選んで、そこにあるホテルに電話をすれば、空き部屋情報や料金がすぐにわかりますよ」
 それはわたしにはできない。言葉の問題ではない。
 「実は、電話を持っていないので・・・」
 彼女は一瞬言葉に詰まり、「あらまあ、まさか!」と思ったに違いないが、気を取り直して地図の表面を出した。
 「それでは、まず、このホテルにあたってみてはいかがですか。ここを出て、右折して、もう一度右に曲がったらすぐ左手です」
 地図の上に、赤ボールペンで順路の線を書き入れた。
それから2分もかからずに、教えてもらった宿に着いた。シングルルームあり。川のすぐ近く、道路側の部屋だが静か。35ユーロ。文句なし。チェックインしたあと、うれしくて、案内所に礼を言いに行った。
 「すばらしい宿でした。完璧な案内でした。ムーチャス・グラシアス」
 「それはよかったですね」
 美女がほほ笑んだ。
礼を言いに行くほどうれしかったのは、ホテル以外にもいいことがあったからだ。宿のすぐ下にはカフェがあって、このカフェもすばらしかったからだ。宿のすぐそばに、お気に入りのカフェがあるのはうれしい。だから、案内所に礼を言いに行ったのだ。
 チェックインしてすぐ、階下のカフェで昼飯を食べた。トーストサンドとアメリカン・コーヒーで、3.40ユーロ。約400円だから、日本の喫茶店よりもかなり安い。レシートを見ると、“Gilda”と“Con Leche”になっている。青トウガラシとオリーブのつまみであるGildaとトーストサンドの料金が同じ、カフェ・コンレチェ(ミルクコーヒー)とアメリカン・コーヒーが同じ料金なので、レシートはこうなる。レジに数字を打ち込むのではなく、写真付きの商品名のボタンを押すと、商品名と金額がレシートに印字されるシステムだから、レシートの商品と実際に食べた物の名が違うという体験は以後、しばしばするようになる。スペイン人がまず飲まない「カフェ・アメリカーノ」を私が注文するから、同じ料金の別の商品名でレジを打つ。レシートを注意深く読むと、こういうこともわかって楽しい。
 このカフェの窓側の明るい席が、私の席だと決めた。喫煙者用の路上のテーブルや通行人や向かいの商店を眺める。ここで朝食を食べ、午後のコーヒーを飲みに行けば、店員がほほ笑んで迎えてくれる。コーヒーを飲みながら日記を書く。夜は、コーヒーを飲みながら本を読んだ。書斎にも使えるカフェが見つかれば、居場所の完成だ。長居したくなる。気にいった宿と、カフェや食堂が近所にあれば、穏やかに過ごせる。私にとって幸せな旅とは、その程度でいいのだ。
 この街でいい宿が見つかったので、フランス小遠征は無期延期になった。それも、また旅だ。