913話 イベリア紀行 2016・秋 第38回

 また、ソルSolに


 早朝のビルバオ。地下鉄でバスターミナルに行き、すぐに出るマドリッド行きのバスに乗った。ゲルニカのことをまだ考えている。ロンリープラネットの“Spain”には、「ゲルニカバスク人の精神的支柱といえる場所だから、攻撃を受けた」とあるが、さて事実はどうなのだろう。よくわからない。
 バスの旅が5時間を超えると、前方にこんもりとした森が見え、その向こうに高層ビルも見えてきた。やっとマドリッドだ。街中を走り、地下にもぐる。窓の外を見ると、細いチューブのなかを、大型バスがぎりぎりで走っているようで、しかもけっこうな距離だ。暗黒の地下に落とされているようで、少々閉所恐怖症ぎみの私は、ちょっと息苦しくなった。
 アベニーダ・デ・アメリカ・バスターミナルは、以前に使ったことはないが、地下鉄駅に隣接しているので、路線図を見ればすぐに移動できる。地下鉄アベニーダ・デ・アメリカ駅で、10回使える回数券を買って、アトーチャ駅に行く。今回のマドリッド滞在の計画は、まだはっきりとはできていない。じっとこの街にとどまるか、それとも近郊の街にしょっちゅう出かけるか決めかねているので、まずはマドリッドの中央駅のひとつであるアトーチャ駅のそばで宿探しをしてみようと考えたのである。
 駅近くの、でかくて古そうなホテルに行ってみた。料金次第では、泊まってやらないこともない。
 「今夜、シングルは・・・」
 「はい、満室です」
 間髪をいれず(かん・はつをいれず)、髪1本も入らない隙間でとはよく言ったもので、フロントの社員はすばやく「満室」と告げた。私がホテルのドアを開けた瞬間に、私の風体を見て言おうと決めたセリフなのかもしれないが、それならばまことにするどい観察眼と言わざるを得ない。「ちなみに、1泊いくら?」と聞く時間的精神的余裕もなく、すごすごと引き下がった。それほど客が多いなら、安くする必要がない。ということは、私が泊まれるような料金ではないということだ。
 やはり、ソルか。ソルに行くしかないか。そこが安宿密集地で、前々回も前回も泊まったことがある。だから、今回は、気分を変えて別の地区にしようかと浮気を試みたのだが、やはりもとの鞘におさまりそうだ。勝手知ったるソルは、やはり便利な地区だからだ。
 ソルは「太陽」という意味だ。その中心にあるのが、プエルタ・デル・ソル(太陽の扉)という名の広場であり、地下鉄ソル駅もそこにある。今回、その周辺を調べていて知ったのだが、ソル駅は命名権が販売され、2013年から“Vodafone Sol”となっていたのだが、2016年6月に、晴れて元に戻った。私が行った時にはすでに元に戻っていたので、その悲しい過去を知らなかったのだ。
 プエルタ・デル・ソル広場の近くに、スペイン各地に伸びる道路の起点を示す「ゼロKm地点」を示す石板が歩道に埋め込まれている。つまり、ここはマドリッドの中心地というだけでなく、スペインの中心地ということになる。そんな中心地が、安宿密集地でもあるというありがたい状況にある。
 アトーチャ駅の方から、ソルに向かって歩いた。このあたりはかつてよく歩いているのだが、記憶にモヤがかかっている。前回は広場近くのあわただしい地域の安宿に泊まったので、今度は広場から少し離れた宿にしようと思った。ありがたいことに安宿の数が多いので、ビルバオと違って選び放題だ。どこでも大差ないだろうと、路地を歩いて、”Hostal”や“Pension”の看板を探し、静かそうな路地で最初に見つけた宿に決めた。特別にいい宿ではないだろうが、文句は何もない。
 我が安宿から、徒歩1分で王立サン・フェルナンド美術アカデミーやメキシコ大使館があり、東側に徒歩5分のところに、国会議事堂とディッセン・ボルネミッサ美術館があり、徒歩15分もしないところにソフィア王妃美術センターや王立植物園やプラド美術館がある。西側に5分歩くとマヨール広場があり、そこから徒歩10分以内の場所に、王立劇場や王宮があり、さらにもう少し歩くとドン・キホーテ像で有名なスペイン広場がある。
 ご近所にそういう施設がありながら、官庁街でも高級住宅地でもなく、安宿やバル(居酒屋)や劇場や映画館もあり、散歩をしていても飽きることがない。東京で、ここに近いところをあえて探せば、新橋だろうか。そういう地区で、古めかしい表現を使うと、私は旅装を解いた。
 そもそもは、このマドリッドでしばらく滞在したいと思ったのに、ちょっとした気まぐれで、日本からの飛行機がマドリッドに着いたにもかかわらずすぐ乗り換えて、わざわざポルトガル経由の時計回りの大プロローグの旅をして、今やっと戻ってきたのだ。

f:id:maekawa_kenichi:20191101021511j:plain
 我が安宿の前の路地。早朝は、缶、ビン、紙くずなどゴミの山だが、朝の清掃後はこの通り、さわやかな朝の顔を見せてくれる。