915話 イベリア紀行 2016・秋 第40回

 あの時代のスペイン、マドリッド 中編

 それから27年後の2002年、私はふたたびマドリッドに来た。宿はやはりソルだ。ヨーロッパのことだから、町並みは何年たっても昔のままだろうと、あの時の旅の風景を求めて歩いてみたのだが、記憶がはっきりしない。どの宿に泊まっていたのか、まったく覚えていない。1975年の記憶は。マヨール広場とサン・ミゲル市場、チャマルティン駅などそれほど多くはなかった。ガイドブックも地図もなくさまよい歩いたので、通りの名も覚えていない。記憶に残る風景がまとまらない。
 今回、2016年に、2002年の記憶の場所を探して歩いてみた。アジアの都市のような大変化はないが、プエルタ・デル・ソル広場からマヨール広場あたりの建物はすっかり化粧しなおしていて、すぐにはわからなかった。想像していたよりも、ずっと変化していた。経済統計によれば、2002年はスペインの失業率は低くなったようだが、旅行者の実体験ではマドリッドは暗かった。日が落ちると、プエルタ・デル・ソルからマヨール広場に行く道の商店はみなシャッターを下ろし、路上には布を広げた中国人たちが、安物の中国雑貨を売ったり、椅子を置いて路上マッサージ店を開業していた。その光景は、とてもヨーロッパとは思えなかった。裸電球しかないアジアの地方都市の光景だ。
 警官が来たぞという合図のホイッスルが路上に鳴り響くと、露天商たちはいっせいに荷物をまとめて姿を消した。しばらくは、暗い街灯が灯るさびしい路地に戻る。裏通りに回ると、中国人娼婦が立っていた。深夜ではなく、まだ夜の9時ごろだが、その時間にまだ裏通りで営業している店は、中国人経営の雑貨店くらいだった。バルはやっていたはずだが、賑やかな感じはまったくしなかった。あのころ、シベリア鉄道で東欧に入り、ヨーロッパ各地で不法滞在を続ける中国人が話題になっていた。
 暗く、さびしく、猥雑でもあった2002年のマヨール広場へ続く路地は、2016年にはすっかり姿を変えていた。大道芸人が商売をやり、商店には飾りがあり、テーマパークというか、アミューズメントパークというか、明るく派手で安っぽく、子供向きの路地になっていた。サンドイッチ屋やアイスクリーム屋などが並んでいて明るい。東京でいえば、大久保から新宿に至る路地が、原宿・竹下通りに変身したようなものだ。シャッターを下ろしている店はほとんどない。昔と違って、道を歩いている人の数が圧倒的に違うのだ。露店も出ているが、店それぞれの個別の照明など必要ない。路地全域が明るいのだ。
 マドリッドの夜がまだ暗かった2002年、私は映画とコンサートに通っていた。その時に見た映画の話は、この「イベリア紀行」の24,25回に書いている。コンサートは宿のすぐ隣りにあったアルベニス劇場に通った。フラメンコを見たのを覚えている。観光客相手のフラメンコではなく、芸術的な創作フラメンコのようなものだった。その手のダンスを見慣れていないので、それはそれで興味深く見た。まったく知らないバンドの演奏も聞いたが、ほとんど覚えていない。ブラジルのジョアン・ボスコだったか、ジョルジ・ベンジョールだったかのポスターを見たので、すぐさまチケットを買いに行ったが、すでに売り切れだった。コンサート当日でも切符を買えるとおもったのだが、甘かったようだ。
 それが、スペインを離れるという前日の昼のことだった。コンサートのチケットが買えなかったので、用意していたカネが余った。だから、最後の夜は、どこかのレストランに行こうと決めて、いったん宿に戻ることにした。さあ、何を食べようか。タパスをたらふく食べるか、シフードに決めて適当な店を探すか、生ハムの店にするかなど、夕食のメニューをあれこれ考えながら、店の看板を眺めて歩いた。
 そして、わが宿の手前10メートルくらいのところまで来たところで、事故が起きた。

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 マヨール広場への道。左の店のシャッターが下りているのは、日曜日の朝だから。この路地は、朝も夜も人出が多かった