919話 イベリア紀行 2016・秋 第44回

 MADRIDの発音

 毎日マドリッドを歩いた。散歩の助手は、ミシュランの区分地図だ。バルセロナでも、このシリーズの区分地図を愛用した。今どき、印刷物の地図を持って散歩している者は、ほぼ絶滅危惧種だろう。
 東西南北至る所を歩きまわるから、「東奔西走」という言葉が頭に浮かんだが、この四文字熟語が正しい用法なのか自信がない。一応辞書にあたると、「ある仕事・目的のために、所々方々をいそがしくかけめぐること。資金集めに―する」(広辞苑)とあり、たしかに「奔」は「あわただしく走ること」だ。私は「仕事・目的などまったくなく、所々方々をのんびりとただほっつき歩く」だけなので、彷徨や徘徊に近い。
 とくに目的があったわけではないのによく歩いたのは、グランビア大通りとサガスタ通りの間、地下鉄駅でいえば、グランビア駅とアロンソ・マルティネス駅に挟まれた地域だ。この地域にはChuecaチュエカ地区もあり、そこは知る人ぞ知る場所で、日本風にいえば「新宿2丁目」だから誤解されそうだが、そのあたりのもっと広い地域を散歩すると、東京の中央線沿線のような雰囲気を感じさせる。教会が貧者のための食事サービスを毎日している。大学らしき施設で写真展などをしている。いろいろおもしろい商店もある場所だ。すでに紹介した食文化専門書店a puntoもこの地域にある。
 観光地としては、Museo del Romanticismoロマン派美術館がある場所として知られているが、私はその裏のMuseo de Historia de Madridマドリッド歴史博物館に行ってみた。この博物館そのものの話はのちに書くが、長らく抱えていた疑問をここで解明しようと思ったのである。それはMadridのことだ。
 スペイン語の語尾は母音で終わることが多い。子音で終わるのはn,s,zなどはあるが、dで終わる語は珍しい。スペインの首都の名は、スペイン語らしくない。語源を探れば、アラブ人に占領されていた時代、この街は「水のある場所」を意味するアラビア語で、Majritマジュリートと呼ばれ、それがMadridになったらしい。元がアラビア語だから、スペイン語らしい綴りではなかったのだ。
 では、発音はどうなる。この首都名を日本では、「マドリード」か「マドリッド」と表記することが多く、統一されない。また、一部では「マドリー」というのがある。「スペインではマドリーという。単語の一番最後のDは発音しないからだ」と書いているのは、1960年代からスペインに住んでいるスペイン語通訳で、スペイン語の教科書も書いている叶沢敏子(『スペイン、マドリー、エチェガライ通り十番地』(あずさ書房、1982)。スペイン語の専門家とも言える人がこう書いているのだが、「さて、どうなんだ」という疑問があった。また、ウィキペディア日本語版の「マドリード」は、「語末の『d』はほとんど発音されず、マドリー[maˈðɾi]となるのが通常である」と書いてある(英語版にはそういう記述はない)。
 たまたまマドリッド歴史博物館に来たので、この疑問を解明するチャンスだ。
受け付け付近で話をしている職員に話しかけた。
 「すいません。教えていただきたいことがあるんですが・・・。Madridのdは発音しないと書いている日本人がいるのですが、どう思いますか?」
 学芸員マドリッドの歴史に関する質問かと思ったのだろうが、ごく初歩的な内容だった。
 「発音しますよ。Fritos(フリトス 揚げ物)のsも発音するでしょ。それと同じですよ」
 ほかにいくつもの例をあげて、語尾の子音を発音することを実例で示してくれた。だから、ここでは「語尾の”D”は発音する」というのを、正解にしておこう。
 では、次の疑問だ。「マドリッド」か、あるいは「マドリード」か。旅行ガイドブックの世界では、JTBや昭文社は「マドリード」。ただし、「マドリッド」を使っているJTBガイドもある。また、Real Madridの日本語版公式ホームページでは「レアル・マドリード」。明石書店の本でも、学術文献でも「マドリード」が強い。朝日新聞社の規則では「マドリード」で、司馬遼太郎も「マドリード」としている。
 「マドリッド」としているのは「地球の歩き方」や実業之日本社版ガイドなど何社かあるが少数派だ。
 「どちらが正しいのか」という議論は意味のないことはわかっている。カタカナでは書けない音なのだろうと思う。旅行中に気にかけていたが、「こうだ」と説明できる情報は集まらなかった。
 帰国してから引き続き調べていると、「すごいな、これ」というサイトを見つけた。ある単語を、いくつかの国の人がどう発音しているかを、音声で例示しているものだ。次のFORVOというサイトを出し、検索欄に”Madrid”と記入して、▶部分をクリックすると、スペインなどスペイン語母語としている人たちが、Madridをどう発音しているのかわかる。その部分を直接示すことができないので、うまくいくまでやってみてください。
https://ja.forvo.com/
 このサイトの情報は私の旅の体験に近い。つまり、人によって「マドリード」とも「マドリッド」とも言っているように聞こえるので、「どちらがより近い」とも言えない。私はなんの確信も論拠も理由もなく、「マドリッド」を使っている。
 知りたがり屋は、こういうことを調べ始めるから,1500文字のブログを書くのに何日もかかる。道楽ですがね。

 アロンソ・マルティネス駅近くの建物。1階が店舗で上階が住宅になっている。特異な装飾があるわけでもなく、適度に趣味が良く、設計者の名前など誰も知らないこういう建物が好きだ。