933話 イベリア紀行 2016・秋 第58回

 朝飯

 マドリッド滞在でほんの少々不満だったのは、朝飯を食べる場所だった。
 私は朝起きたら、すぐに朝飯を食べたいタチなのだが、宿のすぐ近くには朝早くからやっているカフェはなかった。もっとも近い店で5分は歩かないといけなかった。昼間は10キロでも15キロでも歩いているから、歩くのが嫌なのではない。のどが渇き、腹を減らして歩くのが嫌だったのだ。
 5分歩いて行く場所は、カフェではなかった。パン屋だ。地下にパン工場があり、1階の半分が販売所とコーヒーカウンター。あと半分にテーブルが4つ、2階にはテーブルが6つある。店で買ったパンを、店内で食べることもできるという点では願ってもない場所ではあるのだが、はやっているパン屋だから少々せわしなく、落ち着かない。近所に住んでいる人はパンを買って帰るから、座っている客のほとんどは、私のような旅行者か、長期滞在中の外国人だと思われた。そういう点でも「異界」にいるような気がした。つまり、スペインにいるという気分じゃなかったという意味だ。
 バルセロナで通った店はカフェで、朝は常連のじーちゃんばーちゃんと、何で飯を食っているのかわからない怪しいおっさんたちがテーブルにいて、朝から強い酒を飲んでいるじーさんもいた。そういう具合に、スペイン度が高かった。
 スペインの典型的な朝飯は、まず「パン・コン・トマテ」(パンにトマト)というもので、バゲット風パンに、みじん切りのトマトを塗り、塩やオリーブオイルをかけて食べる。
 もうひとつあげるなら、「チョコラテ・コン・チュロス」。チュロスは日本でも知られるようになった揚げパンで、チョコラテは溶かしたチョコレート。ココアではなく、濃厚な高温液体チョコレートで、チュロスをつけて食べる。高カロリーだから、「時代遅れのじーさんの朝飯」というイメージがあるが、スペイン人に聞くと、「若者でも食べているよ」というが、実際に食べている光景はあまり見ない。さまざまな場所で朝食風景を観察すると、サンドイッチやクロワッサン(大きい)や甘いパンが多く、チュロスに液体チョコレートという組み合わせの客は、あまり見かけなかったが、なにぶん観察数が少ない。
 近所のこのパン屋に、1日に1回か2回行った。大きな店だから満席ということは少なく、明るく、地下に清潔なトイレもある。午後のひととき、日記を書きながらコーヒーを飲んでいると、店の甘いパンが目に入り、ついつい「これ、頂戴!」と指さしてしまい、夕食の時間が遅くなることもあった。
 スペインのパンについて、何か資料になるようなことが書いてあるかもしれないと思い、ネット書店から取り寄せたのが、『世界のパン図鑑224』(監修:大和田総子、平凡社、2013)なのだが、これがいけない。スペインのパンについては何も書いていないが、だからといってダメな本というというわけではない。深夜にこの本を見ていると、パンの写真が食欲を猛烈に刺激する。その食欲と戦うのがつらいのだ。今はもう、ラーメンやカレーの写真には何の反応も示さないが、パンはいけない。だから、じっくり読みたいが、まだよく読んでいないのだ。米が食べられない旅行になんの不満はないが、パンが食べられないとストレスが溜まりそうだ。
 スペイン人が朝から酒を飲む話など、バルセロナでの朝飯事情などは、この雑語林の668話に書いている。

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 いきつけのパン屋の2階席から。